よそもんでチビですが...そろそろよろしくお願いしますO(-人-)O

皆さん、日本で一番古い建物がかの法隆寺金堂だってのはご存知でしょう(古墳・石造物等除く)。。

じゃ、関東で最古の建物はどれか知ってますか?

それがこれ (/・0・)つ
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東博の表慶館の裏手にある 「旧十輪院経蔵」 という建物。
もとは奈良市内の十輪院というお寺で大般若経六百巻を収めるために使用されていたもの。鎌倉時代前期、およそ800年ほど前の建築ですが、入口の扉は高さ1mちょっとしかなく腰を屈めないととても入ることはできません。。

えっ?移築された建物は別だろーって?
確かに。。人が暮らせない位小さいしなぁ...でも関東に何百万棟もあるだろう建物のどれよりも古いってのはスゴイと思いませんか??東京に移築されてからでも既に130年余りも経ってるんですよ~。
判官贔屓じゃありませんが、この、いつも訪れる人もなく寂しそうに立っている転校生のオチビさんも、そろそろ関東の仲間に入れてあげたい気分なんです。。

建物の下の方には十六善神像(般若経の誦持者を守護する神様です)を線彫りした石板が張られていますが、奈良町にある十輪院を訪れるとまさにこの石と同種の石で作られたと思われる仏龕が御本尊として祀られています(なんだか朝鮮の石仏みたいな日本ではとっても珍らしいタイプの仏様です)。それを納める本堂もこの経蔵と同じくちっちゃなかわいらしいお堂。。
独特の味わいのあるお寺なので奈良に行かれる予定がある方は、ぜひ十輪院まで足を伸ばしてみることをお勧めしますよ(この経蔵見てからならなお可ですね!)。。

 十輪院のホームページ(せんとくんに対抗してなーむくんを立てた団体の中心がこのお寺です)

閑話休題。。
で、、この経蔵に収められてた天平時代の大般若経(魚養経)を紹介しようと思ったんですが、
んんん??あれ?

十輪院のホームページでは今でも従来云われていた通り
「(経蔵にあった魚養経は)明治時代の廃仏毀釈のとき奈良・薬師寺の所有となり・・・」 とありますが、
確か関連の論文が載ってたなと思い出して、奈良博で開催された「天竺へ 三蔵法師3万キロの旅」展の図録をあらためて見てみると、魚養経が十輪院旧蔵だなんてどこにも書いてないじゃないですか?!しかも天文3(1534)年に薬師寺で作った経櫃も紹介されてるし!!

時系列で整理してみると、、

 8世紀後半、「大般若経」六百巻が制作される
   (いつしか朝野魚養が筆者に当てられ魚養経と通称される)
 →13世紀初め頃、十輪院の経蔵が建てられる
 →天文3(1534)年に薬師寺で経櫃が新造される
 →明治15(1882)年十輪院の経蔵が東博敷地内に移築される
 →従来云われて来た所では、廃仏毀釈によって十輪院から薬師寺に経巻が流出
 →大正年間に薬師寺から経巻の大部分が流出
   (現在藤田美術館が387巻、薬師寺が40巻弱、その他博物館や個人が50巻弱を所蔵)
  また押印の時期は不明ですが各巻に「薬師寺印」「薬師寺金堂」の印が捺されています

ということで、1534年と大正頃の時点では薬師寺が所蔵していたのは確かと思われますし、
印もそれなり古そうなので、恐らく8世紀に制作された場所も薬師寺においてである可能性が大。。
となると魚養経ってホントに十輪院に所蔵されてたことあるんでしょうか??


確か飯島太千雄氏が空海の本でここらへんに触れてたような記憶があるので、
図書館で本借りたら追記することにしますわ m(。・ε・。)m


(2013/1/30追記)
<<< で、さっそく飯島氏の本見てみました (『若き空海の実像』、大法輪閣、2009)。。
すると有益な情報として、春名好重氏の本に寛政4年に薬師寺に魚養経があったと出ているとのこと。
さっそく春名氏の『古筆大辞典』で魚養経の項を繰ってみると、、
屋代弘賢の『道の幸』に魚養経を薬師寺で拝見した記述があるということで、
今度は『道の幸』をネットで検索すると、幸い早稲田大学の古典籍総合データベースで見ることが
できました。。
 『道の幸』(早稲田大学図書館蔵、pl.87、左の頁の1~3行あたり)
『道の幸』は屋代弘賢が京や奈良の社寺に宝物調査に出かけた時の記録ですが、それによると(寛政4年12月6日)薬師寺を訪れて魚養筆の大般若六百巻を見る、第105、110の2巻が欠けていて世に流出している断簡はこれだという、ってなことが書いてあります。。

奈良時代の大般若経というのはそんなにあるものではありませんから、寛政4(1792)年の時点で弘賢が見たという大般若経はまず今の魚養経と考えてよさそうです。

つまり1534年と1792年には薬師寺にあったということ、大正時代に薬師寺から流出したこと、
これらはほぼ間違いないとして、、

①廃仏毀釈で流出したという十輪院の言い伝えを信じるとすると、十輪院の経蔵はもともと別の
  大般若経のために造られたのだが、1792年以降明治初年までのわずかな期間だけ薬師寺から
  魚養経が移されて収蔵されていたということでしょうか??
②それとも廃仏毀釈で流出したというのが間違いで、魚養経が十輪院から流出したのは1534年以前
  だったということでしょうか?(「薬師寺印」はそれ以降の後捺と見て)
③あるいはそもそも魚養経は一度も十輪院にあったことはなく、朝野魚養が開基と伝わる十輪院に
  大般若経を納めるための経蔵が存在するという事実と、魚養筆とされる大般若経が存在している
 という事実が安易に結び付けられた訛伝なんでしょうか?

現時点ではなんとも分りませんが、大般若経転読の法会が流行したのが平安後期以降であることから考えると、もともと十輪院の経蔵は鎌倉時代に制作(or 輸入)された大般若経のために建立され、そのお経がいつしか失われたあと③のような訛伝が生じた、という可能性が高いようにも思います。。
ま、ここでごちゃごちゃ考えてみても、東博あたりから関連の資料が発見されるか十輪院旧蔵の大般若経が新たに確認されるかでもしない限り真相は不明ですよね~。。

てなことで、関東最古の建物、旧十輪院経蔵と魚養経は何の関係もないのかも知れませんが、どんなお経か見てみたいという方もいらっしゃると思うので一応画像も挙げておきましょか。。

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       伝・朝野魚養筆 「大般若経(魚養経または薬師寺経とも)・巻九十四」、27×1065、770年代、出光美術館蔵

ごらんの通り、この大般若経は大聖武をちょっと和様化したような感じで、日本の写経としては唐風の堂々としたもの。。朝野魚養という人には吉備真備が唐の女性との間にもうけた子だったとか空海の書の先生だったとかいうあんまり当てにならない伝説があって、そこら辺にこの唐風のお経の筆者に魚養が付会された理由があるのでしょう。。
あ、今更ですけど「魚養経」はギョヨウキョウ、ウオカイキョウ、ナカイキョウなど色んな読み方があります
(最近はギョヨウキョウと読まれることが多いですが、個人的にはナカイキョウが好きです)。

巷間流通してることもままあるので東京や京都の古書肆・骨董店を捜せば入手も可能だと思いますよ。
500万~3000万円くらいかな~(画像に挙げた巻九十四は書風・状態とも立派なものです)。
早期退職で退職金が入った先生など思い切って1巻いかがですか~
 (家に帰ってから血を見るやも知れませんが...)



☆ ちなみに移築されてない関東土着の建物で一番古いのは、年代がはっきりしているところでは
   足利の鑁阿寺本堂(1299年)だと思います。飯能の福徳寺阿弥陀堂も大体その頃。。
   あるいは山梨を関東に含める(山梨県民の説?)なら、大善寺本堂(1286年)が最古かな。。
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by brevgarydavis | 2013-01-28 21:02