ここ惚れ ワンワン! my treasure その6 ” ガキんちょにはいい時代でした...” の巻

平安時代の内裏や貴族の邸宅では、食入(くいれ)という事件がしばしば起こりました。
食入、とは犬や鳶が死体や死体の一部を敷地の中に運び込むこと。
 (だいだい子供の足なんかが多かったようです...(;゚Д゚)ガクブル...)
なぜそんな事件が記録されたかというと、邸内で死体が発見された場合その家の人はケガレに
触れたと見做されて、一定期間神事や参内を慎まなければならなかったからです。
延喜式の規定では、
死体なら30日、死体の一部なら7日、白骨化していれば穢れとはならない決まりでした。

中にはそれをズル休みの口実にした貴族もいたようでして、
つまりは「親戚のおじさんが亡くなったので...」というのと同じ位、
そうした事態はありがちなことと思われていたんですね。
『方丈記』が記す寿永元年の飢饉のような年はさすがに稀としても(仁和寺の隆暁法印が餓死者の額に阿の字を書いて結縁して廻ったところ左京内だけで4万2千3百余を数えたといいます)、一体、二体の片付けられずに転がっている死体というのは、平安京では日常風景の一コマでした。

ですから下の絵のような光景も当時の人にとっては今よりよほど実感のあるものだったろうと思います。

【九相詩絵、32×484cm、鎌倉末期、九州国立博物館蔵】
b0283699_13514100.jpg

中世以前と近世以後では様々な違いがありますが、、
平安~鎌倉の絵を見たり説話集を読んだりしていて感じるのが、死体や化け物に対する態度。

江戸時代にもなると行き倒れた浮浪人でさえ村人が共同で埋葬し弔うことが慣例化しましたが、平安時代の庶民の間では風葬地に運ぶ人手がない死体はそのまま家の中や道端に放置されるのが当たり前でした。
 (孤独死のニュースを聞くと中世がぽっかり今の世に現れたような気がしますね...)
死体は敬して遠ざけるものではあっても、人目に晒すべきでないもの・片付けなければならないもの、という意識は希薄だったと言えます。

逆に濃厚だったのが様々な魑魅魍魎の実在感。。
江戸時代の怪異を扱った本を読むと、なんだかんだいってもお化けや妖怪はホントはいないんだっていうのを分って書いてる感じですが、平安時代の『今昔物語』の方には山を幾つか超えれば何が潜んでいるか誰にも知れないというリアリティがありますよね。
柳田の『遠野物語』が平地人を戦慄せしめたのは、そうした中世人の感性が今なお辺地の庶民の間には色濃く残っているのかという驚きが大きかったと思います。
芋虫みたいな行基図の日本国には鬼やら物の怪やらが住む場所もたっぷりあったんでしょうが、日本でも西洋でも地図がちゃんとしてくると頭の中以外には彼らの居場所はなくなっていくみたいで..。


で、今回のマイ・トレジャーは
そんな死体ゴロゴロ、妖怪ウジャウジャの平安京を活写した名作、「餓鬼草紙」(東博本)。
できればマイ・トレジャーですからナショナル・トレジャーとはかぶらない方がいいんですが、
これだけ優れた作品だと取り上げない訳にはいきませぬ。。

有名な作品ですから、美術史的な概要は東博のサイトなどに任せるとして、
ここでは平安時代の街の様子を知るための資料として重要な2図だけご紹介しておきましょう。

現在の私たちはお墓というと墓石がずらーっと並んだ光景を思い浮かべますが、庶民がああいうお墓を立てるようになったのは近世以降なんですよね。
これは中世に遡る年紀を持つ墓石が存在しないことから明らかなんですけど(よっぽど偉い人の場合は五輪塔や多宝塔が墓として建てられることもありました)、それじゃそれ以前の墓地が具体的にどういうものだったか分る資料というのは皆無に近い。

そんな中で鳥野部や化野、船岡山といった平安京の葬送地の実態をリアルに伝えてくれるほとんど唯一の資料が、下の「餓鬼草紙」(第4段)なんです。
絵を見ると、筵の上に置き去りにされただけの遺体がある一方、棺の中に入れられた遺体もあり、土まんじゅうの上に木を植えた?ものや塔婆や五輪塔を立てたもの、塚のまわりを石垣で囲ったものなど様々な墓や葬法があったことが分ります(ただしこれは恐らく図柄としてヴァリエーション豊かな情景を描こうとしたもので、実際には放置されただけの遺体が圧倒的多数だったはずです)。
しかし例えば、置いて来るだけの一番粗末な葬法でも下には筵を敷き腰の辺りは布切れで隠して置いて来たんだなと分るのはまさに絵画史料ならではですよね。。
当時の人でも肉親を地べたに裸で放置してくるのはさすがに忍びなかったんでしょうが、こうしたことは文字史料には残りません。庶民は読み書きができないし、そもそも当たり前の習慣や状景をわざわざ書き残す人はいないからです。

もっともこうした葬送地に持って来る人手がない遺体は近場の鴨川の河原に捨て置かれたり(大雨が降るとキレイに一掃されるのである意味好都合ではあるんですね...)、それも叶わない場合には家の中や大路に放置されたのは前述の通りですが...。

【餓鬼草紙(東博本)、27x388cm、12c末頃、東京国立博物館蔵】
b0283699_10571815.jpg
(第4段;疾行餓鬼)

お墓以外にも、もっと重要なあるものも平安京の庶民の家にはありませんでした。
そう、トイレですよ~。

京都市内を発掘していると、寄生虫の卵や瓜の種が多く含まれたつやのある黒っぽい土の区域がしばしば見つかるそうですが、これは正に下の「餓鬼草紙」(第3段)に見られるような庶民の共同便所だった場所に違いありません(便所っていっても要するに只の路地ですけどね..)。

五人が高下駄を履いて(共用のものが備えられてたんかな?)つれションならぬつれウ×チ中。
まぁこれも絵のあやで実際にはこんなに上手い具合に老若男女様々な人々が同時に用を足すことはなかったでしょうが、人間たちのなんとも間の抜けた無防備な様子(人間には勿論餓鬼は見えません)とそれを見つめる生き生きした餓鬼たちの対比が素晴らしい!(ぜひe国宝で拡大して見て下さい!)
特に真ん中辺り、素っ裸で大きな高下駄を履き籌木(糞箆)を杖代わりに持った小さな子(女の子とは限りません)の描写が魅力的ですね(下痢のようで可哀想ですけど)。お母さんとなんか話してるみたい。。

驚かされるのは地面に紙のようなものが散らばってること。。『長秋記』(1119.10.21条)には室内の調度として「大壺紙置台」(おまる用の紙を置く台)っていう言葉が出てきますし、『正法眼蔵』にもお尻を拭くには籌木か紙を使うっていう記述がありますが、それはあくまでも貴族や僧侶のような上層階級の話。。
こんな路地で用を足すような庶民の間でも、
既にお尻を拭くのに紙を使うのが一般的だったんでしょうか?
だとすればトイレットペーパーを描いた絵としては世界最古のものであることは確実ですが..

b0283699_10563084.jpg
(第3段;食糞餓鬼または伺便餓鬼)

餓鬼道とはご存知の通り強欲で嫉妬深い人間が落ちるところ。。
死体や糞尿を食べてみじめな生をつなぐ哀れな存在のはずですが、
東博本の「餓鬼草紙」では可哀想なのは人間の方で、
肝心の餓鬼たちは平安京を嬉々として自由気ままに徘徊しているように見えます。
(ちなみに京博本「餓鬼草紙」の方の餓鬼はもっと卑屈で悲しげな表情に描かれてるんですよ)

これじゃあ因果応報の教えは全然伝わらなさそうですけど、
私は東博本の餓鬼たちは大好きなんです。
なんだか町中でいたずらして歩く子どもたちのようにも見えますもんね。。
今でも発展途上国のガキんちょの方が眼はキラキラ輝いてたりしますが、平安京の子どもたちも死体やウ×チを棒で突っついたりしながら元気に走り回っていたに違いありません。
時にはコロッと疫病で死んだりしてね。

衛生状態が良くなって少子化も進む現代の日本ではどっちのガキも少なくなったように思えますが、ホントの餓鬼は見えないだけであなたの周りにもウジャウジャいるんですよ~。
死体も排泄物も強欲な人間も、東京には平安京の何十倍も存在するんですから...。
[PR]

by brevgarydavis | 2013-04-16 01:41