美術史の小窓 その10 ” 「えことば」 とは呼ばないで! ”

時々、絵巻のことを絵詞(えことば)って書いてる本がありますよね。
例えば「伴大納言絵詞」,「平治物語絵詞」,「蒙古襲来絵詞」等々。
最近では美術関係の本よりも日本史など他分野の本に多いみたい。

でもこれ、しばしば指摘される通り本来の意味からすると明らかな誤用なんです。
中世では絵巻のことは単に「~絵」と呼んでいました。「源氏絵」とか「伴大納言絵」とかね。
では「絵詞」とは何かというと、絵巻の詞書の部分のこと。
つまり「絵詞」=「絵+詞」ではなく、「絵詞」=「~絵の詞」の意。

例えば中世の記録で「~絵詞を進上」とあれば絵巻を献上したってことじゃなくて、エライ人から依頼されていた絵巻の詞書部分を清書し終わったので提出した、ということですし、
字だけで地味なのであまり目にする機会はありませんけど「~絵詞」と称する(主に)冊子本は寺院や図書館などに結構な数が所蔵されています。

物語絵巻の場合はたいてい既存の物語(又はそのダイジェスト版)に絵を付けて絵巻を作りますから、絵詞にしちゃうと元の物語に戻っちゃうわけでわざわざ絵詞を写すということはめったにないんですが、
祖師の伝記や社寺の由来を語る宗教絵巻の場合は文章から新たに起草されることが多く、詞書だけでも写したいという需要も当然少なくなかったでしょう。有名な宗教絵巻を所蔵しているお寺などでもその絵巻から写された絵詞も幾つか所蔵しているということはよくあります(蔵書目録とか聖教目録の類に掲載されているのであまり気付かれませんが)。岩波文庫の「法然上人絵伝」や「一遍聖絵」なども文庫化の目的・使い方ともに正に絵詞的なものと言えますよね(絵の写真も一部載ってるけどね)。

b0283699_16392756.jpgではこうした絵詞の誤用がどうして広まったかと言うと、昭和30年代頃に国宝・重文の指定名称として絵巻の意味で絵詞が使われたということが大きいと思われます(誰のせいかは武士の情けで追及しませんが…)。
美術史以外の研究者や自治体などが絵詞という言葉を好んで使うのは、文化庁の指定名称に従うのが正式だろうという意識があるからなのかな~。

この誤用、少なくとも江戸時代からあったみたいで寛政6年(1794)刊行の『好古小録』でも既に絵詞が乱発されています(いつから始まったのかはさらにそれ以前の文献を調べる必要がありますね)。





『好古小録』(巻上・部分)、寛政6年、早稲田大学図書館蔵

それじゃあ次に今一番普通に使われてる「~絵巻」っていう言葉が「~絵」の替りに使われるようになったのはいつ頃からでしょうか?
日本にはOEDのような頼りになる歴史的辞書は残念ながら無いので、一応 『日本国語大辞典』を調べてみると、絵巻の用例として挙げられてるのがやはり『好古小録』!
「本邦古来仏教盛ニ行ハレ因果応報ヲ以テ勧善懲悪ヲナスノミ。故ニ画巻ノ如キモ皆仏教ニモトヅキ…」と、「餓鬼画」(東博本か京博本の餓鬼草紙のことか)の解説から用例が引かれています。
なるほど、画巻(ガカン)を「エマキ」と読ませての引用ね。。近世以前だと「画」はほとんどの場合 “エ(ヱ)”と読むので正しい引用だと思いますが、だとするともしや「エマキ」という言葉は中国語の「画巻」を訓読みすることから始まったということか...。

一般的に現在の美術用語では「絵巻(エマキ)」と「画巻(ガカン)」は区別して使われています。
絵と詞でストーリーを伝える巻き物が「絵巻」、人物・花鳥などを列挙した絵や横長の山水画のような詞のない絵だけの巻き物が「画巻」です。
中国でも前者のような絵巻形式の絵も特に古い時代にはちゃんとありましたし、我が国の絵巻も隋唐から伝わったそうした形式を基にして成立・発展したものと思われます。が、彼の国では詞と絵が一体となった作品というと訓戒や経典を題材としたようなお堅いモノが多く、日本で発展したような純粋に見て楽しいマンガ的な絵巻とはかなり異質。。さらに時代が下るとストーリーを伝える絵画形式は挿絵本に収斂していくため絵巻的な表現はますます振るわなくなってしまいます。
結果、中国においてヨコ長の絵で支配的になってゆくのは画巻タイプの山水画や花卉画の類。それが鎌倉~室町時代の日本に伝わって雪舟の山水長巻のような名作も生み出される訳ですが、画巻はいつしか「エマキ」と訓読みされて絵巻という字を当てられ、画巻と絵巻の区別も生じていくという...日本の中国文化の受容の仕方ってーのもなんとも複雑怪奇なことで...(まぁきちんと結論を出すには江戸時代以前の「画巻」「絵巻」という用例をもっと探し出して検討する必要がありますが...)

なお、画巻を訓読みして「エマキ」だと云いましたが、正確には「エ(歴仮名ではヱ)」というのは音読みで和語による訓ではありません。「ヱ」は本来 “絵” の呉音で中国語由来の音。
ピンとこない方もいるかも知れませんが法会(ホウヱ)のように “会” の呉音が「ヱ」であることを考えれば納得できるでしょう。それを “画” の読みにも当てたというわけですね。

つまり 、、、
当時の倭人には絵や画の訓に当てる固有の大和言葉は思いつかなかった
(=当時の日本列島には絵や画に相当するものがなかった) らしいんです!!
勿論それ以前の我が国にも “絵のようなもの” が無かったわけではありません。
銅鐸や土器の線刻画とか装飾古墳、或は織物や刺青の文様なんかがすぐに頭に浮かびますよね
(おそらく日本語ではそれらは “あや(文・彩)” とでも呼ばれていたのでしょう)。
でも我らがご先祖様にとって大陸から渡来した写実的な絵画はそれらとは全くの別物に見えたらしく、
絵や画に「アヤ」という訓が当てられることはありませんでした。


ちなみにそうした意味での現存する日本最古の”絵画”は何だかご存じですか?

おそらく623年頃に描かれた法隆寺金堂の釈迦三尊像台座の板絵か、
622~623年頃に制作された中宮寺の天寿国繍帳のどちらかだと思います。

年代が近いのは偶々ではなくどちらも厩戸皇子(聖徳太子)が亡くなったのを悼んで作られたものだから。
ただ天寿国繍帳の方は下絵を描いた四人の絵師の名前まで分かってるんですが、
染織品という点で “最古の絵” と称するのは少しく憚られますし、
一方、釈迦三尊像台座の方は絵が剥落してしまってほとんど見えないという難があります。
文句の出ない “絵” となるとその1,2世代後、7c中頃の「玉虫厨子」の板絵ということになりますか。

b0283699_194213.jpgb0283699_194444.jpgb0283699_19558.jpg天寿国繍帳               釈迦三尊像台座                玉虫厨子(捨身飼虎図)

しかしまぁ、法隆寺金堂という一角は、建物は世界最古の木造建築だし、焼けちゃったけど壁画は初唐様式の大傑作だし、釈迦三尊像や四天王像は日本最古級の仏像だし、、
まさに文化財界の銀座鳩居堂前のような所...。
これではいくら日本最古の絵が描いてあるといっても地味な台座に注目する人なんてほとんどいないですよね(注目しても見えないし...)。
え?眼を近づけたら山とか描いてあるのがよく見えた?
...お客さん、それ鎌倉時代に造られた阿弥陀三尊像のほうの台座だから...


結論。。
絵巻は巻とか物語とかは取っ払ってシンプルに「~絵」って呼ぶのがプロっぽし。
ゆめゆめ「~絵詞」とは呼ばぬよう。。修学旅行以来法隆寺行ってない人は行くべし。。
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by brevgarydavis | 2013-08-20 16:40