ハンコ が支えた 『キングダム』 の巻。

マンガ『キングダム』面白いですよね。
最近アニメでも放送されてたりして(NHK日曜深夜)、ここ何巻かしばらく買ってなかったんですが、、
また読み返して残りの巻、大人買いしちゃいました( ̄ー ̄)。
読んでない方に説明すると、
時は戦国末期、中原を統一すべく台頭する秦の国の片隅から、無謀にも大将軍に成り上がろうとの
望みを抱いて戦いに明け暮れる少年、信を中心とする物語。
なんといっても戦争・戦闘シーンの描写や緊張感が出色。血湧き肉躍るとはこのことですね。
ただ人がたくさん死ぬので読むと疲れる...
中高年の男性だったらワ×ピースなんかより絶対面白いと思うので是非御一読をお勧めします。
(アニメはそこまでじゃないかな...)。


で、今日はマンガの話じゃなくて、ちょろっとハンコの話なぞ。
b0283699_23233816.jpg美術関係のブログでハンコの話って言ったら、篆刻趣味とか書画鑑定の落款印章の話だと思うでしょうが、ワタクシそっち方面の知識はまるでありません。
かろうじて空也の最中が読める位...

でも古河の篆刻美術館には何度か行ったことありますし(親戚の家から徒歩5分だからだけど)、去年は念願の西冷印社も訪れることができました。
この両方行った者の中で私ほど篆刻に疎い人間はまずいないはず(`Д´)キリッ! (何の自慢じゃ...)         
              
 【西冷印社】

で、そんな私が前からちょっとだけ興味を持っているのが古銅印というヤツ。。

東アジア(ほとんど中国)の印章の歴史は次の三つの時代に分けて考えるのが分かり易いと思います。

① 封をするために粘土(封泥)に押した古銅印の時代(玉や金銀製も若干は有)【戦国~4,5世紀頃】
  (日本に古くから伝わる印でこれに該当するのは志賀島出土の金印だけです)。
② 文書の真正性を保証するために朱や墨で紙に印影を捺すようになった時代【4,5世紀頃~現代】
  (古書画の鑑蔵印を除くと印的には影の薄い時代です)。
③ 銅の鋳造印に替って石材を刻した印が主流になり、文人の間に篆刻趣味が広まった時代【明~現代】

①の古銅印、古代には様々な用途に使用されたんですが中でも重要なのは検&檄

中国で紙が書写材料として一般的になるのは大体2世紀以降(蔡倫紙登場以降)の話でして、、
それ以前には竹簡や木簡が用いられました。
基本的には、書物は竹簡を綴った冊に書かれ、短い通信文・指令文の類は木簡に書かれたみたい。

中でも役所間の通信など重要な文書の場合には、木簡に用件を書き、その上に内容が読まれない&
改竄されないよう別の木の板(これが。宛名等が書かれることもありました)を重ねて紐で縛り、その上に粘土(封泥)を付けて役所や責任者の印を押すことによって封をしました。
封泥を壊さなければ紐は解けない理屈ですね(西洋で手紙やボトルを封蝋+印璽で封じるのと同様)。
紙と違い木簡は文面を削って書き変えることが容易なため、こうした封緘の工夫は必須でした。
多量の木簡や品物の場合には袋や筥にそれらを入れて結束し、小さな検で封をしていることもあります。

一方の、実物のイメージが浮かぶっていう人はほとんどいないと思いますが、「檄を飛ばす」という言い回しは普通に使われる言葉として今でも残ってますよね。
あるいは『魏志倭人伝』の中に魏使の張政が卑弥呼や壹与に対して「檄を為して告諭す」、という記述があったのを思い出す古代史ファンの方もいらっしゃるかも知れません。

「檄」というのは軍事や説諭など強い調子の指令や報告を発する時に使われる形式だと言われます。
ですが不肖ワタクシも最近までその檄というものが具体的にどんな形をしてるのか知らなかったんです。

b0283699_16283361.jpgだから冨谷先生の本で檄の詳しい説明がなされているのを発見した時には大変感激したんですよ~。
(左の本に写ってる多面体の木の棒2本が檄!!)

上の方に見える窪みが封泥を嵌める部分。
つまり檄の場合は印が開封防止のためではなく、指令に権威や公信力を与えるためのマークとして使われていたのだろうということが分かります。
また封泥の背面に紐の痕が無いものがままあることも、こうした檄のくぼみに嵌めて使われたのだと考えれば納得できますね。

戦国時代や秦漢時代の「檄を飛ばす」ってのは当に
この手の木の棒きれを急ぎの便で送り付けること。。
それが転じて大声で人々を鼓舞することもそう表現するようになったと思われます。








具体的にどんなことが檄には書かれてたのか冨谷先生の著作から一例を孫引きさせていただくと、
 (上の表紙の激ではありません)

「建武四年九月戊子従史閎が申し上げます。出張でこの月十月に橐他候官に行きました。その折、橐他守尉馮承が次のようなことを言っていました。今年二日、胡虜が酒泉・肩水塞に侵入し、焦鳳の牛十余頭、羌の女子一人を略奪し、率いて西に向かって河を渡り、虜の四騎は都倉西に止まって放馬し、六十余騎は金関の西に駐留しました。九月九日日蚤食時に先行隊は金関西に到着し、門下掾の誼等はみな金関にいて連絡できませんでした。閎等は候官におります。即日餔時、土煙がたち烟火が石南亭に送られ昏時に火遂、恐らくは胡虜に囲まれ籠城していると思われます。閎は即日夜に居延からの部隊と合流し、王常に伴われて帰還、広地候官胡池亭に到達して止まっております。虜はつけ上がって河の水草伝いに北行し、虜・・・(不明)・・・居延鄣候にお願いいたします。書き写した文書を受け取ったら・・・(不明)」
【『額済納(エチナ)漢簡』2000ES9SF3;4E、内モンゴル自治区文物考古研究所所蔵】


といった具合。。

どうですか!この二千年前とは思えない文書行政の徹底ぶり!!漢帝国恐るべしですね!

全国数千(数万?)の郷や亭からのこのような報告が大量に中央に上がり、それによって中央は状況を把握した上で各地に指令を逓送する、それによってあの広大な帝国が数百年間維持されていた訳です(例に挙げたのは檄だから緊急事態ぽい文章だけど、実際にはもっとのんびりした文書も多し)。
秦の始皇帝はこうした木簡を一日最低一石(30kg位)読んで決済するのを自らのノルマとしていたとか。

行政・司法・官僚制といった東アジアの様々な制度はその淵源を遡ると秦の諸制度に行き着きます。
日本人に影響を与えた思想としてふつう挙げられるのは、仏教、儒教、あるいは神道、道教あたりまでで、韓非や李斯といった法家の連中が設計した制度が今も私たちに甚大な影響を与えていることはあまり意識されません。。これはちょっと残念な事態。
秦や漢って古代的で酷薄なイメージもある一方、理想的な制度を余計なことを顧みず敷衍したような初々しさや明朗さ、剄直さもあって個人的には好きな時代なんだよな~。
まぁ後の爛熟してもったいぶった、なよなよの中国人もまったりして悪くはないんですがね。。


いやいや、閑話休題。。ハンコの話をしてたんだった。。

なんでも聞くところによるとこうした戦国~漢時代の古銅印っていうのは
辺地の草原などにポツリポツリと落ちてるのを拾って来るんだとか。。

つまり...
戦いに斃れた将兵たちが身に付けていたものらしいんです..(((゚Д゚)))ガクブル。
確かに封泥だったら封泥を付けた文書のやり取りをしてた役所の趾などからまとまって出土することもあるでしょうけど、個人の私印じゃ埋ってるのは墓地か古戦場ぐらいしかなさそうですもんね...。

『キングダム』 でも主要人物のまわりの人たちはバタバタ死んでいき、戦いの後の戦場は死屍累々、
鬼哭啾々たる有様に描かれます。
死を賭して戦った彼らの夢の跡として残ったものは僅かに草の間の小さな銅印のみ...そんなことを思ってガラスケースの向こうのハンコをじっと見つめると篆書の筆画がどうとかいう以前に皆さんも胸に迫るものがあるんじゃないでしょうか。。
ですから著名な篆刻家であり古印の収集家でもあった園田湖城翁も、古銅印を捺して印譜を作る際には香を焚くのが常だった、と(-∧-)合掌・・・。。


我が国の古印の蒐集として知られるものに

藤井有鄰館、岩手県立博物館(太田夢庵旧蔵品)、和泉市久保惣記念美術館(園田湖城旧蔵品)、大谷大学(羅振玉旧蔵品の一部)、東博(陳介祺旧蔵の封泥など)、書道博物館、寧楽美術館、さらに故・菅原石廬氏の収集品などがあります。総数では一万方を超える古印が各地に所蔵されているとのこと。。

始皇帝の兵馬俑なみの大軍勢が関西中心に揃ってるわけですね。

夜も更けた丑三つ時、今出川通りあたりで馬の駆ける音が聞こえたら、意外と日本人じゃなくて有鄰館と大谷大学あたりの軍勢が夜な夜な戦ってる音なのかも知れません...。仏教が中国に伝わる以前の連中だから南無阿弥陀仏の類じゃ退散しねーだろーな...。
[PR]

by brevgarydavis | 2013-09-09 14:52