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その思いはプライスレス...若冲や芦雪ならマスターカードで。。

早くしないと又せっかくの展覧会が終わっちゃうので、、ハンセン病資料館の企画展示の前に
今盛岡で開催されてるプライスコレクション展を軽くご紹介。
 (といってもあんまり展覧会自体には触れませんが...)

美術に興味のある方は既にご存じの通り、米国の江戸絵画コレクター、ジョー&エツコ・プライス夫妻が幾許かでも東日本大震災の被災者はじめ東北の人たちの慰めになれば、とコレクションを貸与することを申し出てくれて実現した展覧会 (かたじけないことですね...(´;ω;`))。

私が行ったのは仙台での最終日、かつゴールデンウィークの最終日というゲロ混みの仙台市博物館。
おかげでほとんど図録買いに行ったようなもんでしたわ~(そしたらAmazonでも売ってるし)(爆)。
ちょっと前にテレビでこの展覧会で来てる芦雪の絵を紹介してるの見たら(テレ東で毎週土曜夜10時に放送してるあれ、なんていう番組でしたっけ?)、岩手県立美術館での展示が比較的新しい館だけあって一番快適に見られそうな感じかな(7月15日まで)。
あるいは東京方面からの交通費を安あがりに済ませたい方は、夏休みに福島県立美術館で見るというのもおススメです(7月27日~9月23日)。


しかしまぁー最近の若冲人気は凄いですな。。
この展覧会のタイトルも
「若冲が来てくれました」ってのがデカデカと。完全若冲単押し。
100点以上の出品作のうち若冲は17点だけで他の人たちも沢山来てくれてるんですけどね。

2006年に東博で開催されたプライスコレクション展がその年の1日当りの入場者数世界最多の展覧会になった時も驚きましたが、去年ワシントンD.C.のナショナルギャラリーでやった「動植綵絵」の展示がやはりアメリカでの2012年1日当り入場者数最多の展覧会になったのには更にビックリしました。

だって”Jakuchu”なんて言ったってアメリカではほぼ無名。。
それが過去のナショナルギャラリーでのモナリザ展やツタンカーメン展、ゴーギャン展、フェルメール展といった歴史的なブロックバスター展に匹敵する入場者数だったというんですから日本人としては誇らしいのを通り越して「なんで?」という気持ち(実は私、そこまで若冲好きでもないんですわ...)。

ワシントンに桜が贈られて100年記念だったとかNYタイムズはじめ展評が絶賛してたというのもありますが、行った人の感想をネットで読むと本当に「動植綵絵」に多大な感銘を受けた人が多くて口コミで人気が広がったみたい。。
やっぱりあれだけ濃密絢爛な大連作というのはどこの文化圏の人の目でも無条件に引きつけると思いますし、Zen の絵だってのを強調してる記事や感想も多かった。。キリスト教の宗教画の連作なんかと頭の中で較べてみて、彼我の違いにショックを受けたというか、草木国土悉皆成仏みたいな東洋的仏教的世界観を感じたアメリカ人も多かったんじゃないでしょうか(田舎からサクラ見に出て来たアメリカ人観光客を買いかぶり過ぎかなー?)。


若冲の人気がこれほどまでに至ったのには、大きなきっかけが二つありました。
まずは1968年、辻惟雄氏が「奇想の系譜」(『美術手帖』誌上に連載)で若冲を取り上げたこと。
 (これを受けて1971年には初めての本格的な若冲展が東博で開催されました)
ただこの時には知名度は美術好きの人止まりで、一般の人々の間にまで若冲という名前が浸透することはなかったと思います。

次のきっかけは2000年に京都の国立博物館で大規模な回顧展が開かれたこと。
ここからの十数年間の若冲人気はまさに右肩上がり、ブームと云っても良い位。。あれよあれよという間に若冲は北斎や雪舟にも並ぶほどの日本人なら誰でも知ってる画家の一人になりました。
Cinii で若冲関連の論文を検索してみても、
  1968年迄は6件、1968~2000年が56件、2000~2013年が123件という激増ぶりです。

でも若冲は辻先生が取り上げる以前にも決してマイナーな絵師という訳ではなかったんですよね。
存命中は京都の絵描きの中でも応挙らと並んで屈指の評価を受けていましたし、近代に入っても岡倉天心の『日本美術史』(c.1890~92) や『稿本日本帝国美術略史』(1901) などの中でもちゃんとそれなりの重みを持って取り上げられています。今手元にないけど(カビアレルギーなので小汚い古本はみんな売っちゃったんですよ~≧0≦)それ以降の一般向けの日本美術の通史でも名前くらいは出てたような記憶があります。
東大の美術史の学生でも若冲なんてほとんど知らなかった、って辻先生は語ってますが、昔の学生は一般向けの通史とかは読まなかったのかな~?確かに当時の日本美術史ではその辺の画家はほとんどマトモに論じられていなかったのは全くの事実なんですが...(なぜそういう扱いになったのかは長くなるので又の機会にでも...)。

近年の若冲再評価において辻惟雄氏が最大の功労者であることは云うまでもありません。
しかし美術史家が注目したものだけが美術という訳でもないですし、コレクターや骨董商、明治生まれの絵描きさんなど「若冲?当然知ってるよ」という人も実際にはゴマンといたはず。。
美術史と言っても受容史を考える際にはもうちょっと重層的な語りが必要という感じはしますね。
 (最近「当時は無名だった若冲が…」というような論評が多くて何となく気になってたので...)

おまけとして、
b0283699_03039100.jpg大正15年の秋に東京帝室博物館(表慶館)で開催された初めての近代的若冲展の絵ハガキ。
「動植綵絵」が相国寺以外で全幅展示されたのもこれが最初なんだそうです(秋山光夫氏解説)。
翌年には恩賜京都博物館、1961年には山形の本間美術館でも若冲展がありました。
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  (小さくて字読めないですよね。。クリックで拡大とかの方法が分んなかったので...すいません)
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by brevgarydavis | 2013-07-20 13:52

山形で、世界の起源や石膏像の起源について考えた。

仙台まで若冲見に行ったついでに、お隣の山形県にもちらっと立ち寄って参りましたのでご紹介。

主な目的は山形美術館で吉野石膏コレクションを見ること。。
吉野石膏コレクションは印象派などの近代西洋絵画と近現代の日本画を主とするコレクションで、
西洋絵画は山形美術館に、日本画は天童市美術館に寄託されています。
(吉野石膏は現在は東京に本社がある会社ですが、元々は山形県で創業された由)

東京ではBunkamuraや日本橋三越で展示された時に見てるんですが、ぜひ本場の山形で見たいもんだとずっと思ってたんですよー。
公的な美術館(山形美術館は正確には財団法人の運営で県立でも市立でもありません)に常設展示されてるフランス絵画としては質量ともに西美に次ぐ規模のもの。ピサロ7枚とかモネ6枚など量的にもスゴイですし、セザンヌやマネなどたいへん魅力的な作品も多くあります。。その一方我が国のこの手のコレクションの通弊で、なくもがなって作品も結構あるね(まぁそこらへんは好みの違いと思って我慢するか...)。

b0283699_21205836.jpg中でも一番見たかった1枚といえば、左のクールベ作「ジョーの肖像 美しきアイルランド女」(54×64cm、c.1872)。
なぜって彼女ジョーことジョアンナ・ヒファーナンは今はオルセー美術館が所蔵するかの「世界の起源」(良い子は見ないでね❤)のモデルだと言われている女性。男なら下だけ見て顔を見られないってのはどうにも落ち着きませんよね。
でもそのために山形までしっかり「世界の起源」のコピーを持って出向いちゃう自分って...ヾ(- -;)。。
ただおケケの色が髪と違い過ぎるな…(観察は忘れませんよ(`ω´)キリッ )。

メトロポリタン美術館(1865)やスウェーデン国立美術館(1866)にも同構図のヒファーナンの肖像があり、この作品は直接的にはストックホルムのレプリカと思われますが、1872年というクールベの気力もかなり衰えて来た時期の再制作品なので図版で比較する限りでは出来はやや前二者より落ちる感じ。
それでもこういう美術史的に話のネタになる作品が日本にあるというのはありがたいことです。
 (ちなみに2001年にサザビーズで187万5750ドルだったもの)


閑話休題。。

吉野石膏って聞いてもあんまり普段の生活に馴染みはないような気がしますよね。
でも調べて見ると意外に我々一般人にも縁のある会社なんですよ~。。
まずは住宅やオフィスの壁とか天井とかによく使われてる石膏ボード。7~8割は吉野石膏の製品ということですから、皆さんもお世話になってるに違いありません。
あるいはグラウンドの白線(これは正確には石膏じゃないみたい)や陶磁器,入れ歯なんかの型として。
意外なところでは私たち日本人は日常的に石膏食べちゃってるって知ってました?
お豆腐の凝固剤として石膏(硫酸カルシウム)は普通に使われてるんですよー!
 (最近は昔ながらの「にがり」(塩化マグネシウムが主成分)で凝固させた豆腐も増えてますけど
大人の日本人だったらこれまでの人生で1キロ位は石膏食べてる計算になるようです(+_+;)...。

しかし美術に関係ある石膏と云えば、、
なんといっても美大生のデッサンとか、お金持ちのお宅の飾りに使われるあの石膏像

かつて高校の美術の授業でラボルトをデッサンさせられた時、「日本の石膏像のおおもとは東京藝大にあって、各地の美大なんかにある像はそのコピー、今みんながデッサンしてるのはその又コピーのコピーのコピーぐらいの像なんだぞ~」って美術の先生が言ってたのが妙に印象に残りました。
「ふーん、じゃあ藝大の像が一番価値が高いのか...日本中の石膏像の親子関係が知りたいもんだ」と今思えばやけに美術史的な興味を抱いたのを覚えています(当時は特に美術好きって訳でもなかったんですけどね)。。
その先生は藝大の像はボストン美術館から貰ったもんだとも言ってましたが、荒木慎也氏の研究(『近代画説』20) によるとボストンから贈られたものはルネッサンスの大形像が中心でラボルトやミロヴィ、アグリッパといった美大受験生にお馴染みのメジャーな像は含まれてないみたい。。そうしたものはお雇い外国人が持ちこんだり東京美術学校がフランスから輸入したものらしい。

同じ石膏像でも例えばV&Aのキャストコートに展示されてるような素晴らしい逸品と近所の画材店で売ってるようなカドの甘々な像とは質の面で天と地ほどの違いがありますよね。
藝大に収蔵されてる像も一応はオリジナルからのファーストコピーの類なんだろうと想像しますがどうなんでしょうか...日本の石膏像の質は大枠それ次第な訳ですからね...(ちなみに韓国の石膏像も日本の系統らしいです)。

石膏像の制作はルネッサンス思想の高まりを受けて古代彫刻の発掘が盛んになった16世紀頃から本格的に始まったようで、19世紀には古代ギリシャからルネッサンスに至る名作彫刻の石膏像を系統的に収集展示することが欧米で大流行します。
しかし20世紀に入ると、苟くも美の殿堂たる美術館に偽物やコピーを展示するなどあってはならぬというホンモノ志向が高まり、しょせん複製芸術に過ぎずオーラに欠けると見做された石膏像は次々とお蔵入りの憂き目に...。ボストン美術館の場合も場所を取るのでお払箱にしたかった所に東京美術学校からそれなら譲ってほしいと申し込みがあって渡りに舟だったみたい。

しかし考えて見れば、ブロンズ作品では鋳造によるコピーが立派に本物として展示されてる訳ですし、古代ローマの大理石彫刻だって石製ってだけで多くはギリシャ作品からのコピーに過ぎません。
石膏像だって本来はそんなにバカにしたもんじゃないはずですよね。その上今じゃもとの彫刻から新たに型を取るなんてのは認められる可能性ほとんどゼロですから、早い時期にオリジナルから制作された良質の石膏像の価値は決して低くないんじゃないでしょうか。

V&Aはじめフランス文化財博物館やプーシキン美術館など一部の美術館では今でも石膏像が立派に展示されてますが、それ以外でも欧米の歴史のある館には19世紀に作った質の高い石膏像がたくさん収蔵庫の中で死蔵されてるに違いないと想像します。

b0283699_14135397.jpgで、吉野石膏さんっ!
お願いだからどっかからその手の石膏像一括で買ってきて山形美術館に寄贈してくれませんか!
これほど石膏屋さんに相応しい貢献はないでしょ!藝大よりも質の高い日本一の石膏像コレクションが山形にあるなんて愉快じゃないですか!(東京に展示するとバカにする欧米人がいそうってのもあるけど)。どうせ向こうの美術館でも持て余してるんでしょうから、「ヨーロッパに行けない貧しい日本の画学生の為に」とか言いくるめれば激安価格で展示しきれないほど譲ってくれるんじゃないかな~。

ってなことを、とりとめもなく考えながら山形から新幹線で帰ってきたのでした...。

(徳島の大塚国際美術館なんかも聞いた時は「そんなインチキなもん作る金があったら...」と思いましたが、行ってみたら結構凄いところでしたしね)

(上の絵は山形美術館とは関係なくてメナード美術館の新収品で現在初公開中のゴッホです(10月6日まで)。むかし竹井美術館にあった絵ですけど未見なので近いうちに行って見なきゃ!)
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by brevgarydavis | 2013-07-10 21:48

日の本の癩者に生れて...

先々週くらいですか、国立ハンセン病資料館で開催されている特別展、
「一遍聖絵・極楽寺絵図にみるハンセン病患者―中世前期の患者への眼差しと処遇―」
を見に行って参りましたよ。

国立ハンセン病資料館は西武池袋線の清瀬駅南口から久米川駅行きのバスで数分(歩くと30分位)
バスの本数も結構あるので、とりあえず清瀬駅(久米川側から行っても勿論OKですが)まで辿り着けばスムーズに行くことができます。
この資料館がオープンしたのは1993年。実はその頃から行きたいと思っていたのですが、
なんとなんと20年も経ってようやく訪問することができました。
 (実際行ってみたらウチから1時間ちょっとで行ける場所だったのに腰が重過ぎるわ~(>_<))。

展示は上述の展覧会を開催している比較的小さな企画展示室と、ハンセン病の歴史や療養所での生活を紹介した常設展示室3室とで構成されています。

まずは常設展示の方から。

ハンセン病については全然知らないという方は少ないと思いますしネット上での情報も充実しているのでごく概略だけ説明すると、かつては癩と呼ばれ、症状が進むと顔や手足が激しく爛れたり変形したりするために大変恐れられた病気。。そのため我が国では古くからもっとも穢れた存在と見做されて共同体から排除されるなど患者や家族は様々な差別を受けてきました。
1873年ノルウェーのハンセンがらい菌を発見し、細菌による感染症であることがはっきりしたことはハンセン病克服に向けた大きな一歩でしたが、当時は有効な治療法が無かったため患者を一般社会から隔離するという対応が推奨されました。
日本でも1907年には主に放浪患者(昔は今で言うホームレスのかなりの部分がハンセン病患者で占められていました)を国などの療養所に収容する制度が始まり、1931年からは全患者を強制的に隔離する政策が採られました。そのことによって最低限の生存権はなんとか確保されましたが、様々な療養所内の労働を強制されたり反抗的な者や逃亡を図った者は重監房に入れられるなど療養所というよりまさに刑務所のような扱いを受けることも少なくありませんでした。また実際には菌の感染力は弱いにも拘らず官憲が犯罪者のように取り締まらなければならないほどの恐ろしい伝染病だというイメージが一人歩きし、世間の人の患者に対する偏見や恐怖感を助長することにもなりました。
1941年、結核治療薬として開発されたプロミンがハンセン病にも画期的な効果があることが分り(らい菌と結核菌はよく似た細菌なんだそうです)、ハンセン病は菌を根絶して寛解することが可能な病気になりました。それによって多くの国ではもはや隔離は不要というごく当然の判断が下されたのに対し(もううつんないですもんね)、日本では1996年のらい予防法廃止まで絶対隔離政策が取られるという異常な状況が続きました(専門家の責任は本当に大きいです)。

例えば同じく恐ろしい感染症であった結核と較べるとハンセン病政策の理不尽さが良く分ると思います。
実際には結核の方が感染力も強く余命も短い病気。。それでも結核患者の人が強制的に一箇所に集められたり、そこから逃亡を図った人が独居房のようなところに入れられて懲罰を受けたり、すでに完治した人が退院もできないとか仮に外に出られても偏見が酷くて暮らしていけない、などとということは考えられませんよね(逃亡したくなる療養所って...)。それどころか結核には薄倖の佳人や文学青年を連想させるロマンティックなイメージさえありました。
こうした違いが生じた理由は、結局のところハンセン病患者の”気持ち悪い”外見に由来する古くからの差別意識が根底にあったということ以外に何の合理的な根拠もありません。分ってみればタダの病気の一つに過ぎないんですけどね...今でも患者さんが自らの悲惨な経験や不当な差別について発言したりすると、国の金でのうのうと暮らしていたくせにというような中傷が沢山来るそうですllll(-_-;)llll。


日本にある博物館の中でもとてもメッセージ性の強い博物館。
是非みなさんにも足を運んでいただきたい施設ですが、、
個人的には自分の来し方を批判されているような気がして背中のあたりに重いものが残りました。

思い返してみると、20年位前には自分もこうした問題にかなり興味を持っていたんですよね。

そもそものきっかけは大学に入った頃、大阪出身の子の「部落の奴らは...」みたいな発言を聞いてびっくりしたことだったと思います。もちろん部落差別という問題があるのは知っていましたが、よほど年取った人が子や孫の結婚に反対するというような程度のことだろうと思っていましたから、自分と同年代の友達がそういう考えを持っているということにとっても驚いたんです(彼の方は彼の方で日本全国どこででもそういう感覚が通用すると思っていたんでしょう)。
それまでの自分には見えてなかった一面が日本に存在することを知って衝撃を受けたという事。。
で、民俗学や差別を扱った本を毎日のように読みまくってましたし、大学院に入る時も被差別部落史、中央アジア史、日本美術史のどれを勉強するかで迷ったくらい(今更ながら食えないもんばっかだ...)。
だから何となく世間の人よりはハンセン病問題についても知ってるっていう意識があったんです。

しかしこうしてハンセン病資料館に来て見たら、頭に浮かぶのは「あぁこれは知ってる、本で読んだことある」っていうようなことばっかり。本当に情けない...
患者さんの辛さや悲しさに対してさえ何の語るべき言葉も持っておらず、純粋な同情心にも欠けている自分の傍観者ぶりに、お前は何様のつもりなんだと指さされているような気がして途中からはなんともいたたまれませんでした。
普段は過去のあやまちに対して無意識に批判者としての立場で見てしまうんですけど、今度ばかりはさすがにこんな自分では50年前100年前なら絶対患者を差別したり嫌悪する側に廻っていたに違いないとリアルに思われて背筋が寒くなりました。
ハンセン病政策には多くの間違いがあったのは確かですし、誰かが責任を取るべきだとも思いますが、それでもまがりなりにも患者さんに向き合って何十年も働いてきた人たちに対して何もしていない自分が一体なにを言えるのか。
絵や壺なら見てあーだこーだと言ってるだけで良いでしょうけど、苦しんでる人を前にした傍観者じゃ下手な加害者よりタチが悪い...せめてブログに書いて皆さんにハンセン病への関心を持ってもらうだけでも1ミリ位は罪滅ぼしになると良いんですが...

この常設展示室、2007年にリニューアルしたということですが、改装前より悪くなったという声もあるみたい(ただしリニューアル後にも若干の手直しはしてる模様。リンクした藪本雅子氏の他記事も参照されたし)。
こうした論争的なテーマを扱っている博物館の場合は館が提示している文脈や価値判断を100パーセント鵜呑みにしないことも大切ですよね。

なんだか長く重くなったので、企画展示の感想は項を改めて又次回に。。


(つづく)
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by brevgarydavis | 2013-06-09 00:57

「おーい引っ越すぞ!」「又?今度はどこさ?SANAA??異国かい!?」

なんか微妙に忙しくてブログ書くのがおっくうな感じ..毎日更新してる人とかホントに偉いですよね。。
机の上の紙に書きたいネタ忘れないようにメモしてるんですが、数えてみたら40以上溜まってます...
でも半分くらいは終わっちゃった展覧会のネタなんでボツだな~。
くだくだ知ってること書くんじゃなくて、自分なりの感想とか発見を簡潔に書かなきゃいかん(反省)。。

で、今回は2~3週間前にパンフレット貰ってすこぶる感心した、
平成27年度開館予定の「すみだ北斎美術館」の感想など。。

墨田区が来日中に急逝した故ピーター・モース氏の北斎コレクションを取得し、北斎を記念する美術館を建てようとしていることはご存知の方も多いでしょう。
2009年には公募型プロポーザルで設計者が妹島和世建築設計事務所に決まりました。
 (あ?今気づきましたけどSANAA 【妹島和世+西沢立衛】 じゃなくて妹島さん単独なんですね)
プロポーザルの時はイマイチぴんと来なかったんですが、改めてよく見てみるとこれはかなり優れた
建築になりそう。期待が膨らんできましたよ!

b0283699_1622711.jpg左図のようにスリットで分割された多面的な外観が特徴。外壁の淡く反射するアルミパネルはルーヴル・ランスと似たイメージかな。

1階部分はスリットの開口部が東西、南北に十字型に貫通していてどの方向からでも自由にアプローチ(通り抜けも!)できる、いわばピロティ的な造り。


スリットというとむしろ密閉性の表現として使われる場合が多いですが、大きく切り取ることによって周りに開かれた雰囲気の演出とするというのは妹島さんならではですね。さすがだな~と脱帽。

1階部分はフリーゾーンにして四隅の”柱”の中にそれぞれエントランス、図書室、講座室、荷物用エレベータを配置し(上手い!)、2階は学芸員室・収蔵スペースなどスタッフオンリーのフロアーで、3,4階を常設・企画展示室とするプラン。
本当は展示室はワンフロアーの方が望ましいでしょうが、これは所与の敷地の問題だから建築家としてはどうしようもないですね。プロポーザルの時のパースでは床にアップダウンがあるように見えたので、新美南吉記念館の例を思い出して不安を覚えたんですが、今回のパンフレットでは平らな床面になっているようでその点は一安心。

一方、強いて残念な点を挙げるとすると、建物に浮世絵や北斎を思わせるところはなく墨田区のこの場所だからというサイトスペシフィックな特徴も感じられません(まぁ江戸っぽい雰囲気にするには隈研吾氏の馬頭広重美術館みたいに和風モダンな造りにする以外方策はなさそうですが)。
いや、それが残念ということではなくて、どこか緑に囲まれた美しい場所に写真美術館としてでも建てられればもっともっと傑作建築として世界的に評価されただろうに...という点が惜しい!

以前建設地が緑町公園に決まった時にわざわざ見に行きましたが、別に悪い場所でもないけど墨田区内にももっと良い場所たくさんあるのにな~というのが正直な感想でした。浅草からスカイツリーへの動線上、墨田公園の近くとかね。。
大体23区内の公立美術館は空いてる都有地や区有地に地域のバランスなんかを考えて建てられたりするのではっきり言ってどこも碌な立地じゃないんですよね~。文化施設は商業施設と同じくらい立地が大切だと思うんですが...

個人的には数百点くらいの中途半端なコレクションでもって保存上展示期間が限られる浮世絵の美術館を建てるのは感心しないんですけど、まぁ北斎の美術館をつくるとすれば小布施や津和野より墨田区の方が相応しいのも明らかな事実。一生のほとんどを墨田区と台東区のあたりで過ごしたわけですからね。せめて開館までに収蔵品を充実させて欲しいものです。

たばこと塩の博物館も近い将来墨田区に移転しますし、私もそろそろ墨東に引っ越してみようかな~。
あ、そんな金も暇もないか...(>ε<。 )


(悲報) 以前クールベの記事で心配していた村内美術館ですが、やはり6月25日で実質閉館と
      いうことになりそうな模様。コレクションの行方が気になりますね...
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by brevgarydavis | 2013-06-02 00:07

祝落慶!!巣鴨さざえ堂でお年寄りも若者もくるくる昇天中!

以前このブログで大正大学が巣鴨にサザエ堂建ててます、ってのをお知らせしましたが、
無事予定通り竣工したということで紹介した行き掛かり上、偵察に行ってまいりましたよ。

正式名称は「すがも鴨台観音堂」
鴨台、というのは巣鴨あたりの高台を指す雅称で、本郷と言えば東大、三田と言えば慶応、というように大正大学の代名詞として雑誌や同窓会などの名称にしばしば使われている言葉です。

大正大は言うまでもなく仏教系の大学ですから観音堂を建てるのは良いとしても、なんでここにサザエ堂?っていうのが疑問だったんですけど、一種の地域貢献として、ということみたい。

巣鴨という地域、もともとは江戸のはずれの一農村でした。
それが村内に中仙道が通っていたことから、江戸が発展するにつれて茶屋や駕籠屋、あるいは植木屋や青果商などが街道筋に立ち並び賑わいを見せるようになります。
18世紀中頃になると、そうした中仙道沿いの町家は町方として町奉行所の支配下に入ることに。。
巣鴨村の中でもその区域だけは、いわゆる江戸八百八町の一つとなったわけです。
 (実際には当時江戸の町は1600以上にも増えてたそうですが...)

現在おばあちゃんの原宿として有名な「巣鴨地蔵通り商店街」 がまさにこの中仙道沿いの町方部分に当たります。
歴史好きの方には巣鴨駅から中仙道最初の宿場町である板橋駅(正確には宿場は駅のもうちょっと先)まで旧中山道(今は白山通りがバイパスとして機能しているため旧がつきます)を歩くというのがお薦めのプチ散歩コース。
ほぼ直線で2km余り、道の幅がなんとなく昔の街道っぽくて良い感じなんですよ。

見所の第一は巣鴨駅を出てすぐ、地蔵通り商店街の入口に位置する真性寺の大きなお地蔵さん(1714年造立)。いわゆる江戸六地蔵の一つとして有名ですが、現存する五体の中でも江戸の出入り口に祀られたという本来の姿を一番感じることができる良い環境にあります。
次の必見スポットはなんといっても巣鴨の代名詞、とげぬき地蔵の高岩寺。ただしこのお寺、実は明治24年に上野から引っ越してきたスガモ的には新参モノなんですよね。だけど刺抜きパワーはすごくて移転するとたちまち巣鴨一の人気スポットになったそうでございます。

で、次は...となると、何を隠そう巣鴨に来た人の99.9%はここら辺しか行かないのが現実。。
でも江戸時代には中山道を更に1kmほど進んだ庚申塚のあたりも賑わいを見せておりました。
中仙道の立場として江戸からの長旅や飛鳥山への行楽の際などに立ち寄る茶屋があったからです。
 (『江戸名所図会』にも登場しますね)
しかし言うまでもなくキョービ茶屋一軒で人を呼ぶことはできませぬ。

そこで登場したのが件のすがも鴨台観音堂なんです!!

以前は大正大学は旧中仙道に面していなかったんですが、近年南側の土地を買い増して庚申塚のすぐ先、地蔵通り商店街の西端に校地が接することとなりました。
せっかくだから地元になにか貢献できることはと考えたんでしょう、巣鴨駅周辺の観光客をもっと西に
回遊させるような新たな名所を創ったらどうよ?!ってなことで出した答えがサザエ...
 (なぜサザエだったのか私には未だに分りませんが、大正大も中々やるな..とは思いましたよ..)

このサザエ堂、できたばっかりだから当然ぴっかぴかでとっても綺麗。
でもそこが何だか物足りぬのう~新建材で明るく清潔に作られてるので2~3分もあればスルっと昇って降りて来れちゃう。。本来こういう珍妙な建物はちょっと異界感があって探検気分を味わえる位が魅力的なんでしょうけど、そうした感情に訴える部分は少ない感じ。。

正面から入るとまず目に飛びこんで来るのはガラスの中に安置された古そうな制多迦童子さん。
(とある仏具屋さんの寄託とか。不動明王の眷族だからイマイチここには合わない気もする…)。
それを横目に左回りに階段を昇っていくと途中の壁には梵字が。。メモしてこなかったので何の梵字か分からん…三十三観音かな~?数だけでも数えてくれば良かった(反省…)
頂上に着くと(更に階段は続くようですが立入禁止)千住博氏が描いた滝?の小さな三曲屏風を背にして2尺位の小さな素木造りの聖観音サマがお出迎えしてくれます。
松久宗琳佛所という所(有名?)の制作だそうです。

(昔学生だった頃に美術史の先生と話していて、某お寺に行ったら本尊が戦後に作られた仏様だったのであんまり面白くなかったと
言ったら、「あの仏像は戦後のものとしては屈指の傑作だよー」って返されて衝撃を受けた記憶があります…近代以降の仏像だから
と言ってバカにせずにちゃんと芸術作品としてマジメに見なければと反省したんですが、未だにどれも似たりよったりに見えちゃう…)


二重らせんなので下りは別階段でく~るくる。
その壁にも千住氏作のカラフルなパネルが嵌めてあります。でも屛風もパネルも小さいので千住氏の本領があまり発揮されない印象。。周りの敷地の塀にでも描いてもらった方が良かったような...。

                        (堂内は撮影禁止です)
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率直な印象としては地蔵通り商店街のお客さんをここまで引っ張ってくるにはパワー不足かな~。

再開発妄想のある私としては、なんとかこの旧中山道沿いが江戸情緒を味わえるような通りとして観光地化してくれると良いのに~と思ってるんですけどね...浅草の外国人観光客の皆さんが川越まで行かなくてもここら辺に回遊する位になると地域も潤うんじゃないでしょうか。
第一歩としてお年寄り向けに温泉かスーパー銭湯でも近くに造ってくんないかな...。

大正大学は初めて敷地内に入ったんですけど予想外にキレイな学校でしたよ。
礼拝堂の中には重文の阿弥陀如来坐像もあるんですが、大正大学出身の女の子に聞いたところでは在学生でもほとんど見れないとのこと。残念!!
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by brevgarydavis | 2013-05-19 23:49

みほとけの うつらまなこに いまうつるのは...

2,3日前、何気なくTVのチャンネルを回してると(←リモコンをジャグリングしてたって意味じゃないですよ、若者諸君!)
内田康夫さん原作の浅見光彦シリーズ「平城山を超えた女」を放送してました。
 (平城山は「ならやま」って読みます。奈良から京都に抜ける時に最初にある低丘陵地帯ですね)
普段この手の2時間ドラマはあんまり見ない私ですが、思わず見入っちゃいましたよ。。

仏像ファンの間では香薬師 盗難を扱ったミステリーとして有名な作品。
原作は面白いけど話が込み入ってるのであんまり映像化は向かないんじゃないかと思ってましたが
予想通りなんだかごちゃごちゃしてやや盛り上がり感に欠ける終わり方になってましたな...。

そんな訳もあってか、浅井光彦ものは各局で何度もドラマ化されてますが、「平城山を越えた女」は初めてみたい。。まぁ、中村俊介さんや遊井亮子さん(なんか年取ったら岡本信人さんに似て来ましたね...)のファンには面白かったんじゃないでしょうか。

香薬師(こうやくし)とは、かつて新薬師寺にあった白鳳様式の銅造薬師如来立像のニックネーム。

b0283699_17452584.jpg二尺半余りの小像ですが左の写真に見るとおり、とっても
可愛らしい楚々とした童顔のほとけさま。亀井勝一郎や
和辻哲郎が絶賛したことでも有名になりました。

しかしこの美しい仏さま、その尊顔をじかに拝したことがあるという方は現在ではほとんどいないはず。。
なにしろ今を遡ること70年前、外界では南洋の戦局が急速に悪化していた昭和18年3月21日未明に盗難に遭って以来、その行方は杳として知れないからです。
見たことがあるという人がいるとすれば、新薬師寺の小僧さんでもない限り90歳は超えていることでしょう(先日のドラマでは昭和38年に盗まれたという設定に変更されてました..将来再びドラマ化される時には平成×年に盗まれたなんてことになってるかもね)。。
私もこの像が好きだという人は知ってますが、実物を見たことがあるという人には一度も会ったことがありません。

明治時代にも2度盗まれてはお戻りになっているので、当初はまたすぐ見つかるのではという期待もあったようですが、ホトケの顔も三度までというべきかこんなセキュリティの悪い寺にはおられへんということなのか、なかなかお出ましになられないまま数十年が過ぎてしまいました。
外国に売られてしまったとか大阪の空襲で焼けたとか適当なこと言う人もいますけど、金銅仏は頑丈なので必ずやどこかで再び世を照らす時を待っておられるに違いありません!いいかげん犯人も寿命が尽きる頃だろうし出てきても良い頃合なんですけどねぇ...。

しかしTVでチラッと映った香薬師さんはヒドい出来だったな~発泡スチロールだって丸分りですわ..。
新薬師寺と鎌倉の東慶寺には盗まれる前にとった形から鋳造された像があって時々公開されますし
(国立博物館にもあるそうですが未確認)、小平の平櫛田中彫刻館には田中翁が模刻した像もあって
これもさすがに素晴らしい出来栄え。。展示される時にはこのブログでもなるべくお知らせしますよ!
(先日再訪してみたら旧宅の座敷に安置されてました...全然まえ見た記憶がない...)


えっ?!実はうちにもそっくりなのがある??それってもしかして昭和18年にあなたのお爺ちゃんが...
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by brevgarydavis | 2013-05-13 17:55

美術館業界にも来るかアベノミクス効果?!

蕪上がれ~!\(^_^)/!のパフォーマンスが効いたのか、日経平均急上昇中ですね!
1万5千円も間近かな?

アベノミクスが長期的に上手くいくかは未知数ですが、とりあえずは街の雰囲気も明るくなりましたし、
株価上昇による資産効果で宝飾品などの高額商品も売れ始めているとか。。
座して衰退するのを待つよりは、まずは何でもやってみるのは良いことなんじゃないでしょうか。
どの道、増税にせよインフレにせよ国庫破綻にせよ国民の資産を国の借金に移転しなきゃならないのは明らかですし、景気拡大による税収増でそれが賄えれば何より、たとえ失敗しても無資産家の私には被害も少なそうですしね...(おこぼれもないけどさ)。

税収が増えて公立の美術館にまで予算が廻ってくるのは遙か先でしょうが(借金や少子高齢化傾向を考えれば永遠に来ないかもね...(´ヘ`;)...)、企業系の美術館には速やかに効果が出そうです。

代表的なところでブリヂストンの株価を見てみると、、
今日の終値は3730円。なんと去年の平均のほぼ倍!!

ブリヂストン美術館と石橋美術館を運営する石橋財団はブリヂストン株の9.43%、7669万3千株を保有していますから、この1年で1400億円余から2860億円へ1400億円以上資産が増えたことになります。
配当を見ても、2011年までの数年間はリーマンショックもあって一株当り平均20円前後、2012年はようやく32円へと増配されましたが、今年はなんと予想配当54円です!
配当だけで41億円以上の収入が見込めることになります。

円安に振れてるのは欧米の作品を購入するにはマイナスですけど、アベノミクスが成功すればインフレ・円安傾向はまだ続くでしょうし失敗すれば更にインフレ・円安が進むでしょうから、政権交代でアベノミクスが終了したり他国が日本以上にコケたりしない限りは日本円は今のうちに評価の安定した海外の美術品なんかの資産に換えとくのがお得なはず。。
まぁ石橋財団は投資目的で絵を買ったりはしないと思いますが、館のリニューアルも一段落してますし配当分を使い切るのに躊躇する必要はないでしょう。

去年は32円の配当でカイユボットと岡鹿之助をゲットできましたから、今年はそれ以上に重要な作品を購入してくれるんじゃないかと勝手に期待してますよ!o(^o^)o ワクワク


そう言えば、ブリ美のテーマ展「PARIS,パリ,巴里―日本人が描く1900-1945」も中々楽しめましたよ。。
行ったの一ヶ月以上前ですから忘れかけてますけど、なんとか思い出して書いておくと、

満谷国四郎の「坐婦」は初めて知った作品。。国四郎好きの私としては大満足。
辻永の2作品が見られたのも良かった。
マチスの寄託作品「樹間の憩い」や藤島武二の「ヴェルサイユ風景」、佐伯祐三の「休息(鉄道工夫)」
なんかも実際に見るのは初めてじゃないかな~
 (最近の記憶力からすると過去に見てる可能性も少なくないですが...)
佐伯も優れた作品が6点も並ぶとさすがに素晴らしいですね。ユトリロの100倍良いわ~。
中でも最大の見所は浅井忠と和田英作がイーゼル並べて同じモデルを描いた「読書」でしょうか。
ってあれ...ホームページ見たら浅井作品、5月3日で東博に帰っちゃってるし...。
この規模のテーマ展で目玉の1作品だけ展示替する意味が分らん...。

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               辻永 「ハルピンの冬」、33×45cm、1917年、石橋美術館蔵

「PARIS,パリ,巴里―日本人が描く1900-1945」
は6月9日までゆっくり開催してますよ!!どうしてもとは言いませんが中位にお薦めです!!
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by brevgarydavis | 2013-05-07 20:39

色彩を持たない多崎つくるの友達の色と、著作権切れの年

先週、関西旅行に行ってきましたよ。
主な目的は京博で開催中の「狩野山楽・山雪」展を見ることでしたが、、
ついでにいくつか他の美術館やお寺も巡って参りました。
で、まずは「美の饗演 関西コレクションズ」(国立国際美術館)の感想なぞ。

関西方面ということだと年に1,2回は行くんですけど、
大阪中心部には3,4年に一度しか行かないものですから、
行った時には梅田~中ノ島辺りに高層ビルがニョキニョキ増えてるのを実感しますね~。
グランフロント開業で盛り上がってる大阪人の皆さんを横目に、閑散とした国際美術館へGO!!

関西の6つの美術館(国立国際、大阪市立近代(建設準備室)、京都国立近代、滋賀県立近代、兵庫県立、和歌山県立近代)から近現代の欧米美術を選んで展示するという企画。
何年か前にやった大阪コレクションズの拡張版ですね。
海外の美術館から大金かけて作品借りてこなくても、近所のコレクションだけで結構充実した展覧会
構成できるやん、ということで味を占めたのは良いんですけど、入館料1200円は取りすぎだわ~。
実際のところ、ほとんど準常設展みたいなもんでしょ...。
ま、展示自体はたっぷり楽しめたからいいんだけどさ。。

我が国の公立美術館が欧米の作品を本格的に収集するようになったのは70年代後半からでしょうか。
山梨のミレーや福岡のミロを嚆矢として、80~90年代には猫も杓子も館の目玉とすべくフランス印象派やエコールドパリ、アメリカの戦後美術などを買い集めました。
成金みたようなと揶揄されても美術ファンとしては心躍る時代でしたが、残念ながら大半の美術館ではまとまったコレクションに育つ前にバブルが崩壊してアトが続かなかった...。
いつもおんなじモネやルノワールがポツンと飾ってある美術館よりも、いっそ海外作品には手を出さずに地元の作品中心の堅実な展示を守っている公立美術館の方が頭良さげに見えたりもします。

滋賀県やいわき市が開館時に買い集めたアメリカの戦後美術なんてホント素晴らしいと思いますが、
新規の購入ほとんどなし、関連の展覧会もめったに開かれず、という時期が続くと段々死蔵に近い状態になって常設展示室がドンヨリしてくるのも致し方ないところ。
私もあそことあそこのコレクションを併せれば結構スゴイのに、とか勝手に妄想してましたから
ここ十数年来、美術館どうしの交換展や連携展が増えたのは予算削減に伴う苦肉の策にせよ
自分たちの持っている財産に光を当てる良い機会ではありました。

そんなコレクション見直し展の中でも真打ち級の企画が今回の展覧会。。

一部屋にロスコ4点とアーシル・ゴーキーが並ぶなんて贅沢ですわ~今からじゃ二度と買えん!!
他にも、ブランクーシ3点、ジョゼフ・コーネル5点、ウォーホル3点(14枚!)、リヒター2点、等々。。
下手な海外美術館展よりよっぽど堪能できますよ~!イスはもっと置いて欲しいけどさー。
 (ホントは国立美術館だったら、これくらいの外国作品が常設であって、さらに2,3倍日本の近現代
  美術の展示があって、デザインや写真の展示もある、位が当たり前だと思うんですがね...)

で、今回特に紹介したいのはモーリス・ルイス(1912-62)。。
ルイスって美術史的にもかなり重要な画家だと思うし、ヴェールと呼ばれる作品群(下の上2点です)
なんかはロスコ並みに癒されるんですけど、割と安いんだよねー!!
ポロックやロスコ、デ・クーニングなんかの傑作を今さら日本の美術館が買うのは全く不可能ですが、
ルイスなら、買・え・ま・す・よ、奥さん! (下の「Nun」は2007年に1億8千万円余で購入したものですし、東近美も2008年に「神酒」を7500万円余で購入してます)。

常々お買い得な画家だと感じてたので、
ロト7でも当たったら、値上がり目当てに3,4枚買うことを妄想して一人ほくそ笑んでたんですが、、
先月テレビを見ていたら、、
村上春樹氏の新刊のニュースでなにやら見覚えのある感覚のカラフルな縦線が...
最初ルイス風に真似したカバーかな?と思ったけど、翌日本屋で確認してみるとやはりルイス!
来たー!!ルイスついに来たぜ!!100万人がルイス買いましたよ!
ってあれっ?私がロト7当たる前に来たら困るがな...

考えてみると、彼が亡くなったのは1962年。去年の年末で日本における著作権が切れたんですね。
これも村上氏の作品でよく起こる偶然の一致というやつでしょうか。。
まぁブログにも心置きなく載せることができる訳です...

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              「ダレット・ペー」、234×367cm、1959、滋賀県立近代美術館蔵
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                  「Nun」、249×351cm、1959、国立国際美術館蔵
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          「オミクロン」、262×412cm、1960、大阪市立近代美術館建設準備室蔵

ルイスの作品をいくつか見るにはクリスティーズの過去の落札結果が良いです。。
  (村上作品のカバーに使われた「Pillar of Fire」は2ページ目にあります)
ルイス関連の基本的な情報は以前川村記念美術館でやった展覧会の概要でどうぞ。。

あ、「美の饗演 関西コレクションズ」は7月15日まで長~く開催してますから是非ご高覧あれ。。
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by brevgarydavis | 2013-04-30 23:50

美術史の小窓 その9 ” 細工は流々...仕上げは...老眼で良く見えません(ΘдΘ;) ”

出光美術館(東京)で開催中の展覧会 「源氏絵と伊勢絵―描かれた恋物語」 を見てきましたよ。

出光も長いこと行ってると、館蔵品中心の企画展では以前見た作品も多くなりますし、
源氏絵も何年か前にはマイブームだったんですが最近あんまり興味ないし、、
普通だったらスルーしちゃう展覧会。。

それなのに思わず足を運んでしまったその理由とは、
展覧会のサブタイトル... 「土佐光吉没後400年記念」!!
シブいわーー!!光吉アニヴァーサリー・トリビュートとは...マニア心わしづかみですわ~~。

別に土佐光吉もマイナーな画家じゃないんですけど、
いわば柴田理恵さんや阿知波悟美さんあたりが月9の主役に抜擢されたようなもんですかね~。。
なんで~という極めて大きなギモンとかすかな新時代への予感...

光吉に関しては渡辺美術館の「曽我物語図屏風」が近年紹介されたり、
京博と久保惣記念美術館の「源氏物語画帖」がこの2月に重要文化財に指定されたりと
ちょっとは来てる感もありますな(今年あたりがピークだと思いますけど...)。
出光にも久保惣本の「源氏画帖」が出品されてますし、東博の特集陳列「平成25年新指定国宝・重要文化財」にも京博・久保惣両方の画帖が展示中です!(5月6日までなので「大神社展」行った方はお忘れなく。国宝に指定された願成就院の運慶も来てますよ)。

土佐派と言えば室町時代には当代随一の画派として画壇の中心的存在でしたが、戦国時代以降、新興の狩野派や長谷川派に押されて次第にその地位を失っていきます。大きなきっかけとして光元が戦死したということもありますが、土佐派の目指す美意識が時代と合わなくなっていったのも事実。

狩野派の売りが、漢画を基盤とした豪放磊落、男性的な襖絵などの大画面にあったのに対して
土佐派の本領は、やまと絵を基にした繊細優雅、女性的・貴族的な絵巻や画帖にありました。

勿論土佐派も屏風など大きな作品も制作していましたし、ここ2,30年来、狩野派が大和絵的な画題も多く手がけ、図様などで土佐派の大きな影響を受けていたことも盛んに指摘されています(これには戦国時代以降にも天皇家や公家が依然として大きな文化的影響力を持ち、武家の側にもそれに対する憧れが強かったということがあります)。
しかし桃山~江戸初期に一世を風靡したのはやはり安土城や聚楽第に代表される狩野派的絵画世界。
加えて狩野派お得意の周到な後継者育成と営業戦略。。
光元が急逝した後の土佐派は没落する名門としてまさに存亡の危機にあったんです。

それをなんとか立て直して、土佐派が江戸時代にも続く橋渡し役となったのが光茂の門人だった光吉。
まぁ、光吉にはもはや狩野派に対抗して画壇の中心に返り咲こうなどという野心も能力もなく、
源氏画帖など貴族的小世界に特化して細々と生き残りを図ったとも言えますが、
結果として傍系としての住吉派などを生み、琳派・浮世絵・復古やまと絵などの大和絵系の諸派からも狩野派以上の名門として土佐派がリスペクトされ続けることができたのは光吉が頑張ったからこそ。

不肖やまと絵系の絵も大好きな私、
「土佐光吉没後400年記念」展、と銘打たれてはお邪魔しない訳には参りませぬ。

で、当然光吉の絵を取り上げたかったんですが、あんまりパッとした絵もないので(爆)...(-ω-`;)ゞ
光吉の子(または弟子)の光則の1枚を(今回の展覧会には出ていません)。

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        土佐光則筆 「源氏物語画帖・明石」(60図の内)、15×14cm、17c、徳川美術館蔵
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                            【 同拡大図 】

注目して欲しいのは何と言ってもその恐るべき細密描写...。
前述の通り土佐派の真骨頂はこうした繊細な小画面にあるんですが、中でも前近代の日本の画家で
一番細かい絵を描いたのが光則なんです。
15.4インチの画面でご覧になってる方は、上の絵がほぼ実物大。髪の生え際や御簾の横線とかじーっと観察して見て下さい!PCの画面ではほとんど見えませんよね...
幅が5~6ミリしかない筝にもちゃんと13本の弦が描かれてるんですよ!
当時西洋から渡来した虫眼鏡を使用した、なんて説もありますが、
いぜれにせよ若い時しか描けませんな...

この手の光則の細密描写が楽しめる作品には、上の「源氏物語画帖」のほか、
東博の「雑画帖」、フリーア美術館やバーク・コレクションの「白描源氏物語画帖」などがあります。。
ご覧になる機会があったら、眼を近づけすぎてガラスに激突しないようにね!!(>_<☆)\ イタタタ..
(上の光則筆「源氏物語画帖」&「雑画帖」は光吉に続いて近い将来重文指定受けると予測します)


【参考】15-17世紀頃の土佐派系図(光吉以降は必ずしも親子関係ではありません)
光信(1434?-1525?)→光茂(1496?-?)→光元(1530-69)→光吉(1539-1613)→光則(1583-1638)→光起(1617-91)

 (ようやく今週、京都の「山楽・山雪展」見に行けそうです。面白かったら報告しますよ!)
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by brevgarydavis | 2013-04-21 22:48

ここ惚れ ワンワン! my treasure その6 ” ガキんちょにはいい時代でした...” の巻

平安時代の内裏や貴族の邸宅では、食入(くいれ)という事件がしばしば起こりました。
食入、とは犬や鳶が死体や死体の一部を敷地の中に運び込むこと。
 (だいだい子供の足なんかが多かったようです...(;゚Д゚)ガクブル...)
なぜそんな事件が記録されたかというと、邸内で死体が発見された場合その家の人はケガレに
触れたと見做されて、一定期間神事や参内を慎まなければならなかったからです。
延喜式の規定では、
死体なら30日、死体の一部なら7日、白骨化していれば穢れとはならない決まりでした。

中にはそれをズル休みの口実にした貴族もいたようでして、
つまりは「親戚のおじさんが亡くなったので...」というのと同じ位、
そうした事態はありがちなことと思われていたんですね。
『方丈記』が記す寿永元年の飢饉のような年はさすがに稀としても(仁和寺の隆暁法印が餓死者の額に阿の字を書いて結縁して廻ったところ左京内だけで4万2千3百余を数えたといいます)、一体、二体の片付けられずに転がっている死体というのは、平安京では日常風景の一コマでした。

ですから下の絵のような光景も当時の人にとっては今よりよほど実感のあるものだったろうと思います。

【九相詩絵、32×484cm、鎌倉末期、九州国立博物館蔵】
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中世以前と近世以後では様々な違いがありますが、、
平安~鎌倉の絵を見たり説話集を読んだりしていて感じるのが、死体や化け物に対する態度。

江戸時代にもなると行き倒れた浮浪人でさえ村人が共同で埋葬し弔うことが慣例化しましたが、平安時代の庶民の間では風葬地に運ぶ人手がない死体はそのまま家の中や道端に放置されるのが当たり前でした。
 (孤独死のニュースを聞くと中世がぽっかり今の世に現れたような気がしますね...)
死体は敬して遠ざけるものではあっても、人目に晒すべきでないもの・片付けなければならないもの、という意識は希薄だったと言えます。

逆に濃厚だったのが様々な魑魅魍魎の実在感。。
江戸時代の怪異を扱った本を読むと、なんだかんだいってもお化けや妖怪はホントはいないんだっていうのを分って書いてる感じですが、平安時代の『今昔物語』の方には山を幾つか超えれば何が潜んでいるか誰にも知れないというリアリティがありますよね。
柳田の『遠野物語』が平地人を戦慄せしめたのは、そうした中世人の感性が今なお辺地の庶民の間には色濃く残っているのかという驚きが大きかったと思います。
芋虫みたいな行基図の日本国には鬼やら物の怪やらが住む場所もたっぷりあったんでしょうが、日本でも西洋でも地図がちゃんとしてくると頭の中以外には彼らの居場所はなくなっていくみたいで..。


で、今回のマイ・トレジャーは
そんな死体ゴロゴロ、妖怪ウジャウジャの平安京を活写した名作、「餓鬼草紙」(東博本)。
できればマイ・トレジャーですからナショナル・トレジャーとはかぶらない方がいいんですが、
これだけ優れた作品だと取り上げない訳にはいきませぬ。。

有名な作品ですから、美術史的な概要は東博のサイトなどに任せるとして、
ここでは平安時代の街の様子を知るための資料として重要な2図だけご紹介しておきましょう。

現在の私たちはお墓というと墓石がずらーっと並んだ光景を思い浮かべますが、庶民がああいうお墓を立てるようになったのは近世以降なんですよね。
これは中世に遡る年紀を持つ墓石が存在しないことから明らかなんですけど(よっぽど偉い人の場合は五輪塔や多宝塔が墓として建てられることもありました)、それじゃそれ以前の墓地が具体的にどういうものだったか分る資料というのは皆無に近い。

そんな中で鳥野部や化野、船岡山といった平安京の葬送地の実態をリアルに伝えてくれるほとんど唯一の資料が、下の「餓鬼草紙」(第4段)なんです。
絵を見ると、筵の上に置き去りにされただけの遺体がある一方、棺の中に入れられた遺体もあり、土まんじゅうの上に木を植えた?ものや塔婆や五輪塔を立てたもの、塚のまわりを石垣で囲ったものなど様々な墓や葬法があったことが分ります(ただしこれは恐らく図柄としてヴァリエーション豊かな情景を描こうとしたもので、実際には放置されただけの遺体が圧倒的多数だったはずです)。
しかし例えば、置いて来るだけの一番粗末な葬法でも下には筵を敷き腰の辺りは布切れで隠して置いて来たんだなと分るのはまさに絵画史料ならではですよね。。
当時の人でも肉親を地べたに裸で放置してくるのはさすがに忍びなかったんでしょうが、こうしたことは文字史料には残りません。庶民は読み書きができないし、そもそも当たり前の習慣や状景をわざわざ書き残す人はいないからです。

もっともこうした葬送地に持って来る人手がない遺体は近場の鴨川の河原に捨て置かれたり(大雨が降るとキレイに一掃されるのである意味好都合ではあるんですね...)、それも叶わない場合には家の中や大路に放置されたのは前述の通りですが...。

【餓鬼草紙(東博本)、27x388cm、12c末頃、東京国立博物館蔵】
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(第4段;疾行餓鬼)

お墓以外にも、もっと重要なあるものも平安京の庶民の家にはありませんでした。
そう、トイレですよ~。

京都市内を発掘していると、寄生虫の卵や瓜の種が多く含まれたつやのある黒っぽい土の区域がしばしば見つかるそうですが、これは正に下の「餓鬼草紙」(第3段)に見られるような庶民の共同便所だった場所に違いありません(便所っていっても要するに只の路地ですけどね..)。

五人が高下駄を履いて(共用のものが備えられてたんかな?)つれションならぬつれウ×チ中。
まぁこれも絵のあやで実際にはこんなに上手い具合に老若男女様々な人々が同時に用を足すことはなかったでしょうが、人間たちのなんとも間の抜けた無防備な様子(人間には勿論餓鬼は見えません)とそれを見つめる生き生きした餓鬼たちの対比が素晴らしい!(ぜひe国宝で拡大して見て下さい!)
特に真ん中辺り、素っ裸で大きな高下駄を履き籌木(糞箆)を杖代わりに持った小さな子(女の子とは限りません)の描写が魅力的ですね(下痢のようで可哀想ですけど)。お母さんとなんか話してるみたい。。

驚かされるのは地面に紙のようなものが散らばってること。。『長秋記』(1119.10.21条)には室内の調度として「大壺紙置台」(おまる用の紙を置く台)っていう言葉が出てきますし、『正法眼蔵』にもお尻を拭くには籌木か紙を使うっていう記述がありますが、それはあくまでも貴族や僧侶のような上層階級の話。。
こんな路地で用を足すような庶民の間でも、
既にお尻を拭くのに紙を使うのが一般的だったんでしょうか?
だとすればトイレットペーパーを描いた絵としては世界最古のものであることは確実ですが..

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(第3段;食糞餓鬼または伺便餓鬼)

餓鬼道とはご存知の通り強欲で嫉妬深い人間が落ちるところ。。
死体や糞尿を食べてみじめな生をつなぐ哀れな存在のはずですが、
東博本の「餓鬼草紙」では可哀想なのは人間の方で、
肝心の餓鬼たちは平安京を嬉々として自由気ままに徘徊しているように見えます。
(ちなみに京博本「餓鬼草紙」の方の餓鬼はもっと卑屈で悲しげな表情に描かれてるんですよ)

これじゃあ因果応報の教えは全然伝わらなさそうですけど、
私は東博本の餓鬼たちは大好きなんです。
なんだか町中でいたずらして歩く子どもたちのようにも見えますもんね。。
今でも発展途上国のガキんちょの方が眼はキラキラ輝いてたりしますが、平安京の子どもたちも死体やウ×チを棒で突っついたりしながら元気に走り回っていたに違いありません。
時にはコロッと疫病で死んだりしてね。

衛生状態が良くなって少子化も進む現代の日本ではどっちのガキも少なくなったように思えますが、ホントの餓鬼は見えないだけであなたの周りにもウジャウジャいるんですよ~。
死体も排泄物も強欲な人間も、東京には平安京の何十倍も存在するんですから...。
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by brevgarydavis | 2013-04-16 01:41