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色彩を持たない多崎つくるの友達の色と、著作権切れの年

先週、関西旅行に行ってきましたよ。
主な目的は京博で開催中の「狩野山楽・山雪」展を見ることでしたが、、
ついでにいくつか他の美術館やお寺も巡って参りました。
で、まずは「美の饗演 関西コレクションズ」(国立国際美術館)の感想なぞ。

関西方面ということだと年に1,2回は行くんですけど、
大阪中心部には3,4年に一度しか行かないものですから、
行った時には梅田~中ノ島辺りに高層ビルがニョキニョキ増えてるのを実感しますね~。
グランフロント開業で盛り上がってる大阪人の皆さんを横目に、閑散とした国際美術館へGO!!

関西の6つの美術館(国立国際、大阪市立近代(建設準備室)、京都国立近代、滋賀県立近代、兵庫県立、和歌山県立近代)から近現代の欧米美術を選んで展示するという企画。
何年か前にやった大阪コレクションズの拡張版ですね。
海外の美術館から大金かけて作品借りてこなくても、近所のコレクションだけで結構充実した展覧会
構成できるやん、ということで味を占めたのは良いんですけど、入館料1200円は取りすぎだわ~。
実際のところ、ほとんど準常設展みたいなもんでしょ...。
ま、展示自体はたっぷり楽しめたからいいんだけどさ。。

我が国の公立美術館が欧米の作品を本格的に収集するようになったのは70年代後半からでしょうか。
山梨のミレーや福岡のミロを嚆矢として、80~90年代には猫も杓子も館の目玉とすべくフランス印象派やエコールドパリ、アメリカの戦後美術などを買い集めました。
成金みたようなと揶揄されても美術ファンとしては心躍る時代でしたが、残念ながら大半の美術館ではまとまったコレクションに育つ前にバブルが崩壊してアトが続かなかった...。
いつもおんなじモネやルノワールがポツンと飾ってある美術館よりも、いっそ海外作品には手を出さずに地元の作品中心の堅実な展示を守っている公立美術館の方が頭良さげに見えたりもします。

滋賀県やいわき市が開館時に買い集めたアメリカの戦後美術なんてホント素晴らしいと思いますが、
新規の購入ほとんどなし、関連の展覧会もめったに開かれず、という時期が続くと段々死蔵に近い状態になって常設展示室がドンヨリしてくるのも致し方ないところ。
私もあそことあそこのコレクションを併せれば結構スゴイのに、とか勝手に妄想してましたから
ここ十数年来、美術館どうしの交換展や連携展が増えたのは予算削減に伴う苦肉の策にせよ
自分たちの持っている財産に光を当てる良い機会ではありました。

そんなコレクション見直し展の中でも真打ち級の企画が今回の展覧会。。

一部屋にロスコ4点とアーシル・ゴーキーが並ぶなんて贅沢ですわ~今からじゃ二度と買えん!!
他にも、ブランクーシ3点、ジョゼフ・コーネル5点、ウォーホル3点(14枚!)、リヒター2点、等々。。
下手な海外美術館展よりよっぽど堪能できますよ~!イスはもっと置いて欲しいけどさー。
 (ホントは国立美術館だったら、これくらいの外国作品が常設であって、さらに2,3倍日本の近現代
  美術の展示があって、デザインや写真の展示もある、位が当たり前だと思うんですがね...)

で、今回特に紹介したいのはモーリス・ルイス(1912-62)。。
ルイスって美術史的にもかなり重要な画家だと思うし、ヴェールと呼ばれる作品群(下の上2点です)
なんかはロスコ並みに癒されるんですけど、割と安いんだよねー!!
ポロックやロスコ、デ・クーニングなんかの傑作を今さら日本の美術館が買うのは全く不可能ですが、
ルイスなら、買・え・ま・す・よ、奥さん! (下の「Nun」は2007年に1億8千万円余で購入したものですし、東近美も2008年に「神酒」を7500万円余で購入してます)。

常々お買い得な画家だと感じてたので、
ロト7でも当たったら、値上がり目当てに3,4枚買うことを妄想して一人ほくそ笑んでたんですが、、
先月テレビを見ていたら、、
村上春樹氏の新刊のニュースでなにやら見覚えのある感覚のカラフルな縦線が...
最初ルイス風に真似したカバーかな?と思ったけど、翌日本屋で確認してみるとやはりルイス!
来たー!!ルイスついに来たぜ!!100万人がルイス買いましたよ!
ってあれっ?私がロト7当たる前に来たら困るがな...

考えてみると、彼が亡くなったのは1962年。去年の年末で日本における著作権が切れたんですね。
これも村上氏の作品でよく起こる偶然の一致というやつでしょうか。。
まぁブログにも心置きなく載せることができる訳です...

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              「ダレット・ペー」、234×367cm、1959、滋賀県立近代美術館蔵
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                  「Nun」、249×351cm、1959、国立国際美術館蔵
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          「オミクロン」、262×412cm、1960、大阪市立近代美術館建設準備室蔵

ルイスの作品をいくつか見るにはクリスティーズの過去の落札結果が良いです。。
  (村上作品のカバーに使われた「Pillar of Fire」は2ページ目にあります)
ルイス関連の基本的な情報は以前川村記念美術館でやった展覧会の概要でどうぞ。。

あ、「美の饗演 関西コレクションズ」は7月15日まで長~く開催してますから是非ご高覧あれ。。
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by brevgarydavis | 2013-04-30 23:50

美術史の小窓 その9 ” 細工は流々...仕上げは...老眼で良く見えません(ΘдΘ;) ”

出光美術館(東京)で開催中の展覧会 「源氏絵と伊勢絵―描かれた恋物語」 を見てきましたよ。

出光も長いこと行ってると、館蔵品中心の企画展では以前見た作品も多くなりますし、
源氏絵も何年か前にはマイブームだったんですが最近あんまり興味ないし、、
普通だったらスルーしちゃう展覧会。。

それなのに思わず足を運んでしまったその理由とは、
展覧会のサブタイトル... 「土佐光吉没後400年記念」!!
シブいわーー!!光吉アニヴァーサリー・トリビュートとは...マニア心わしづかみですわ~~。

別に土佐光吉もマイナーな画家じゃないんですけど、
いわば柴田理恵さんや阿知波悟美さんあたりが月9の主役に抜擢されたようなもんですかね~。。
なんで~という極めて大きなギモンとかすかな新時代への予感...

光吉に関しては渡辺美術館の「曽我物語図屏風」が近年紹介されたり、
京博と久保惣記念美術館の「源氏物語画帖」がこの2月に重要文化財に指定されたりと
ちょっとは来てる感もありますな(今年あたりがピークだと思いますけど...)。
出光にも久保惣本の「源氏画帖」が出品されてますし、東博の特集陳列「平成25年新指定国宝・重要文化財」にも京博・久保惣両方の画帖が展示中です!(5月6日までなので「大神社展」行った方はお忘れなく。国宝に指定された願成就院の運慶も来てますよ)。

土佐派と言えば室町時代には当代随一の画派として画壇の中心的存在でしたが、戦国時代以降、新興の狩野派や長谷川派に押されて次第にその地位を失っていきます。大きなきっかけとして光元が戦死したということもありますが、土佐派の目指す美意識が時代と合わなくなっていったのも事実。

狩野派の売りが、漢画を基盤とした豪放磊落、男性的な襖絵などの大画面にあったのに対して
土佐派の本領は、やまと絵を基にした繊細優雅、女性的・貴族的な絵巻や画帖にありました。

勿論土佐派も屏風など大きな作品も制作していましたし、ここ2,30年来、狩野派が大和絵的な画題も多く手がけ、図様などで土佐派の大きな影響を受けていたことも盛んに指摘されています(これには戦国時代以降にも天皇家や公家が依然として大きな文化的影響力を持ち、武家の側にもそれに対する憧れが強かったということがあります)。
しかし桃山~江戸初期に一世を風靡したのはやはり安土城や聚楽第に代表される狩野派的絵画世界。
加えて狩野派お得意の周到な後継者育成と営業戦略。。
光元が急逝した後の土佐派は没落する名門としてまさに存亡の危機にあったんです。

それをなんとか立て直して、土佐派が江戸時代にも続く橋渡し役となったのが光茂の門人だった光吉。
まぁ、光吉にはもはや狩野派に対抗して画壇の中心に返り咲こうなどという野心も能力もなく、
源氏画帖など貴族的小世界に特化して細々と生き残りを図ったとも言えますが、
結果として傍系としての住吉派などを生み、琳派・浮世絵・復古やまと絵などの大和絵系の諸派からも狩野派以上の名門として土佐派がリスペクトされ続けることができたのは光吉が頑張ったからこそ。

不肖やまと絵系の絵も大好きな私、
「土佐光吉没後400年記念」展、と銘打たれてはお邪魔しない訳には参りませぬ。

で、当然光吉の絵を取り上げたかったんですが、あんまりパッとした絵もないので(爆)...(-ω-`;)ゞ
光吉の子(または弟子)の光則の1枚を(今回の展覧会には出ていません)。

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        土佐光則筆 「源氏物語画帖・明石」(60図の内)、15×14cm、17c、徳川美術館蔵
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                            【 同拡大図 】

注目して欲しいのは何と言ってもその恐るべき細密描写...。
前述の通り土佐派の真骨頂はこうした繊細な小画面にあるんですが、中でも前近代の日本の画家で
一番細かい絵を描いたのが光則なんです。
15.4インチの画面でご覧になってる方は、上の絵がほぼ実物大。髪の生え際や御簾の横線とかじーっと観察して見て下さい!PCの画面ではほとんど見えませんよね...
幅が5~6ミリしかない筝にもちゃんと13本の弦が描かれてるんですよ!
当時西洋から渡来した虫眼鏡を使用した、なんて説もありますが、
いぜれにせよ若い時しか描けませんな...

この手の光則の細密描写が楽しめる作品には、上の「源氏物語画帖」のほか、
東博の「雑画帖」、フリーア美術館やバーク・コレクションの「白描源氏物語画帖」などがあります。。
ご覧になる機会があったら、眼を近づけすぎてガラスに激突しないようにね!!(>_<☆)\ イタタタ..
(上の光則筆「源氏物語画帖」&「雑画帖」は光吉に続いて近い将来重文指定受けると予測します)


【参考】15-17世紀頃の土佐派系図(光吉以降は必ずしも親子関係ではありません)
光信(1434?-1525?)→光茂(1496?-?)→光元(1530-69)→光吉(1539-1613)→光則(1583-1638)→光起(1617-91)

 (ようやく今週、京都の「山楽・山雪展」見に行けそうです。面白かったら報告しますよ!)
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by brevgarydavis | 2013-04-21 22:48

ここ惚れ ワンワン! my treasure その6 ” ガキんちょにはいい時代でした...” の巻

平安時代の内裏や貴族の邸宅では、食入(くいれ)という事件がしばしば起こりました。
食入、とは犬や鳶が死体や死体の一部を敷地の中に運び込むこと。
 (だいだい子供の足なんかが多かったようです...(;゚Д゚)ガクブル...)
なぜそんな事件が記録されたかというと、邸内で死体が発見された場合その家の人はケガレに
触れたと見做されて、一定期間神事や参内を慎まなければならなかったからです。
延喜式の規定では、
死体なら30日、死体の一部なら7日、白骨化していれば穢れとはならない決まりでした。

中にはそれをズル休みの口実にした貴族もいたようでして、
つまりは「親戚のおじさんが亡くなったので...」というのと同じ位、
そうした事態はありがちなことと思われていたんですね。
『方丈記』が記す寿永元年の飢饉のような年はさすがに稀としても(仁和寺の隆暁法印が餓死者の額に阿の字を書いて結縁して廻ったところ左京内だけで4万2千3百余を数えたといいます)、一体、二体の片付けられずに転がっている死体というのは、平安京では日常風景の一コマでした。

ですから下の絵のような光景も当時の人にとっては今よりよほど実感のあるものだったろうと思います。

【九相詩絵、32×484cm、鎌倉末期、九州国立博物館蔵】
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中世以前と近世以後では様々な違いがありますが、、
平安~鎌倉の絵を見たり説話集を読んだりしていて感じるのが、死体や化け物に対する態度。

江戸時代にもなると行き倒れた浮浪人でさえ村人が共同で埋葬し弔うことが慣例化しましたが、平安時代の庶民の間では風葬地に運ぶ人手がない死体はそのまま家の中や道端に放置されるのが当たり前でした。
 (孤独死のニュースを聞くと中世がぽっかり今の世に現れたような気がしますね...)
死体は敬して遠ざけるものではあっても、人目に晒すべきでないもの・片付けなければならないもの、という意識は希薄だったと言えます。

逆に濃厚だったのが様々な魑魅魍魎の実在感。。
江戸時代の怪異を扱った本を読むと、なんだかんだいってもお化けや妖怪はホントはいないんだっていうのを分って書いてる感じですが、平安時代の『今昔物語』の方には山を幾つか超えれば何が潜んでいるか誰にも知れないというリアリティがありますよね。
柳田の『遠野物語』が平地人を戦慄せしめたのは、そうした中世人の感性が今なお辺地の庶民の間には色濃く残っているのかという驚きが大きかったと思います。
芋虫みたいな行基図の日本国には鬼やら物の怪やらが住む場所もたっぷりあったんでしょうが、日本でも西洋でも地図がちゃんとしてくると頭の中以外には彼らの居場所はなくなっていくみたいで..。


で、今回のマイ・トレジャーは
そんな死体ゴロゴロ、妖怪ウジャウジャの平安京を活写した名作、「餓鬼草紙」(東博本)。
できればマイ・トレジャーですからナショナル・トレジャーとはかぶらない方がいいんですが、
これだけ優れた作品だと取り上げない訳にはいきませぬ。。

有名な作品ですから、美術史的な概要は東博のサイトなどに任せるとして、
ここでは平安時代の街の様子を知るための資料として重要な2図だけご紹介しておきましょう。

現在の私たちはお墓というと墓石がずらーっと並んだ光景を思い浮かべますが、庶民がああいうお墓を立てるようになったのは近世以降なんですよね。
これは中世に遡る年紀を持つ墓石が存在しないことから明らかなんですけど(よっぽど偉い人の場合は五輪塔や多宝塔が墓として建てられることもありました)、それじゃそれ以前の墓地が具体的にどういうものだったか分る資料というのは皆無に近い。

そんな中で鳥野部や化野、船岡山といった平安京の葬送地の実態をリアルに伝えてくれるほとんど唯一の資料が、下の「餓鬼草紙」(第4段)なんです。
絵を見ると、筵の上に置き去りにされただけの遺体がある一方、棺の中に入れられた遺体もあり、土まんじゅうの上に木を植えた?ものや塔婆や五輪塔を立てたもの、塚のまわりを石垣で囲ったものなど様々な墓や葬法があったことが分ります(ただしこれは恐らく図柄としてヴァリエーション豊かな情景を描こうとしたもので、実際には放置されただけの遺体が圧倒的多数だったはずです)。
しかし例えば、置いて来るだけの一番粗末な葬法でも下には筵を敷き腰の辺りは布切れで隠して置いて来たんだなと分るのはまさに絵画史料ならではですよね。。
当時の人でも肉親を地べたに裸で放置してくるのはさすがに忍びなかったんでしょうが、こうしたことは文字史料には残りません。庶民は読み書きができないし、そもそも当たり前の習慣や状景をわざわざ書き残す人はいないからです。

もっともこうした葬送地に持って来る人手がない遺体は近場の鴨川の河原に捨て置かれたり(大雨が降るとキレイに一掃されるのである意味好都合ではあるんですね...)、それも叶わない場合には家の中や大路に放置されたのは前述の通りですが...。

【餓鬼草紙(東博本)、27x388cm、12c末頃、東京国立博物館蔵】
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(第4段;疾行餓鬼)

お墓以外にも、もっと重要なあるものも平安京の庶民の家にはありませんでした。
そう、トイレですよ~。

京都市内を発掘していると、寄生虫の卵や瓜の種が多く含まれたつやのある黒っぽい土の区域がしばしば見つかるそうですが、これは正に下の「餓鬼草紙」(第3段)に見られるような庶民の共同便所だった場所に違いありません(便所っていっても要するに只の路地ですけどね..)。

五人が高下駄を履いて(共用のものが備えられてたんかな?)つれションならぬつれウ×チ中。
まぁこれも絵のあやで実際にはこんなに上手い具合に老若男女様々な人々が同時に用を足すことはなかったでしょうが、人間たちのなんとも間の抜けた無防備な様子(人間には勿論餓鬼は見えません)とそれを見つめる生き生きした餓鬼たちの対比が素晴らしい!(ぜひe国宝で拡大して見て下さい!)
特に真ん中辺り、素っ裸で大きな高下駄を履き籌木(糞箆)を杖代わりに持った小さな子(女の子とは限りません)の描写が魅力的ですね(下痢のようで可哀想ですけど)。お母さんとなんか話してるみたい。。

驚かされるのは地面に紙のようなものが散らばってること。。『長秋記』(1119.10.21条)には室内の調度として「大壺紙置台」(おまる用の紙を置く台)っていう言葉が出てきますし、『正法眼蔵』にもお尻を拭くには籌木か紙を使うっていう記述がありますが、それはあくまでも貴族や僧侶のような上層階級の話。。
こんな路地で用を足すような庶民の間でも、
既にお尻を拭くのに紙を使うのが一般的だったんでしょうか?
だとすればトイレットペーパーを描いた絵としては世界最古のものであることは確実ですが..

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(第3段;食糞餓鬼または伺便餓鬼)

餓鬼道とはご存知の通り強欲で嫉妬深い人間が落ちるところ。。
死体や糞尿を食べてみじめな生をつなぐ哀れな存在のはずですが、
東博本の「餓鬼草紙」では可哀想なのは人間の方で、
肝心の餓鬼たちは平安京を嬉々として自由気ままに徘徊しているように見えます。
(ちなみに京博本「餓鬼草紙」の方の餓鬼はもっと卑屈で悲しげな表情に描かれてるんですよ)

これじゃあ因果応報の教えは全然伝わらなさそうですけど、
私は東博本の餓鬼たちは大好きなんです。
なんだか町中でいたずらして歩く子どもたちのようにも見えますもんね。。
今でも発展途上国のガキんちょの方が眼はキラキラ輝いてたりしますが、平安京の子どもたちも死体やウ×チを棒で突っついたりしながら元気に走り回っていたに違いありません。
時にはコロッと疫病で死んだりしてね。

衛生状態が良くなって少子化も進む現代の日本ではどっちのガキも少なくなったように思えますが、ホントの餓鬼は見えないだけであなたの周りにもウジャウジャいるんですよ~。
死体も排泄物も強欲な人間も、東京には平安京の何十倍も存在するんですから...。
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by brevgarydavis | 2013-04-16 01:41

ここ惚れ ワンワン! my treasure その5 ” 浦上玉堂、恋する山水 ”の巻

ん~ようやく花粉症が過ぎ去ったと思ったら、どうにも体調が悪い今日この頃...
家に帰ると異常な疲労感でなんにもする気が起きずベッドの上でぐったりして居りまする。。
肝炎になった友達の症状と似てるわ...血液検査にでも行くべきか...

変な話で恐縮ですが、
花粉症の時は性欲の減退が著しいのに対し、今は特にそんなことはありません。
とりあえず糖尿病や鬱じゃなさそう...
という訳で、、
こんな時は玉堂先生の艶っぽい絵でも紹介してその太極の気にあやかろうと思った次第。

b0283699_4404570.jpgご存知の方には説明は不要でしょうが、浦上玉堂(1745-1820)と言えば江戸時代の南画家を代表する一人。
若い時には岡山藩(正確には支藩の鴨方藩)のそこそこのエリート武士として将来を嘱望されながら、脱俗の気抑えがたく、遂には出奔脱藩して琴、詩、画の文人ライフに耽溺するというウラヤマしい後半生を送った粋人です。

そんな玉堂先生の画と言えば、もちろん俗世間を離れた心洗われるような山水の世界を美しく…
ってあれ?こ、この屹立する山のカタチはどー見ても…ナニ…ですよね…(デカい…)(-_-;)
そう、玉堂センセイの画にはこの手のチ×ポコ山が頻出するんです(右の滝が女×器だと気付いたあなたはお眼が高い…)

飄々とした好々爺なのにとんだエロじじいやん…

いやいや、これって実はスゴイことだと思いませんか?古来中国にも万物は陰陽から生ずという思想があり、西洋でもマクロコスモスとミクロコスモスの照応なんて考え方がありますけど、山と水をそのまま男女の凹凸で描いちゃった画家なんて世界広しと言えどもわれらが玉堂先生ただ一人じゃないでしょうか?

    寒林間処図、153×77cm、個人蔵

コロンブスの卵と言えばそれまでですけど、ピカソやダリにも見せてやりたかったわー!!
南画では胸中山水なんてことを大事にしますが、、
 なにげに胸中に思っていることは玉堂先生も小生も大差なかったとは...(爆)
そんな先生に憧れて自らの号をチンチンヤマにしちゃったのが椿椿山。(←これは嘘)

右上に書き付けられた七言律詩の内容によって、友人の姫井桃源が出張から三ヶ月ぶりに帰郷するに際して贈られた絵であることが分ります。
詩中に曰く、「・・・家人三月不相見 太守待渠解所願 探嚢白雪陽春溢・・・」と。。
なんだか難しいですけど性的な含意があるのは明らかですよね。。
(佐藤康宏氏にここら辺について書いた「浦上玉堂のエロティシズム」という名論文があります)

最近こういう自由な爺さんってイイなーってつくづく思いますね~。
俗の中に脱俗する、これぞ本当の隠君子!自由万歳!エロ万歳だぜ!
 (やっぱり最近疲労やストレスが溜まってるのか...)
現代人でいうと浦上玉堂のとらわれない生き方と重なるのはダダカンこと糸井貫二さんかな。。
誰それ?って人は都築響一氏の紹介が秀逸なのでそちらを参照して下さい(閲覧注意)。
 (もう閲覧できないようです。残念!)

自分のブログって、、美術系のブログにしてはこの手のしょうもない話題が多い気がする...【反省】
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by brevgarydavis | 2013-04-11 08:20