斜陽の日本国に再び悲報。。アベノミクスはどないなっとんねん!の巻

川村記念美術館がニューマンの「アンナの光」を103億円で海外企業に売却...。
まぁ好きな人も知ってる人もそんなに多くはないかも知れない、、
オレンジ色のただバカでかい絵に見えるかも知れない、、
私でも描けそうって思うかも知れない(多分描ける)、、
でも、あれを売ったら二度と日本にニューマンの傑作なんか入ってくる可能性はない絵だから
大事にして欲しかった...。
ニューマン・ルームまで造って、2,3年前には回顧展まで開いたのになぁ~。
ちょっと前にニューマン・ルームしばらく閉室のお知らせが出てたのでイヤな予感はしてたけど。
本業のインキ屋が不振というわけでもなさそーなのになぁ...。

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       バーネット・ニューマン 「アンナの光」、276×611cm、1968、川村記念美術館旧蔵

ついでに言うと箱根の岡田美術館!入館料2800円は取り過ぎだろ!!

最近本業でも趣味でも癒されませぬことが多い毎日です...。
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# by brevgarydavis | 2013-10-05 14:40

10年に一度のお楽しみ・・・<一誠堂古典籍善本展示即売会>・・・

まだいささか(かなり?)暑いですけど、稍く燈火親しむ候も近づいてまいりました。
この季節多く開かれる大小様々な古書即売会や古本まつり、ブックフェアなどを楽しみにしている愛書家の皆さんも多いことでしょう。

その手の催し物がたいてい年に一回なのに対して、十年に一度いいかげん忘れた頃にやってくるのが
一誠堂の創業○○周年記念「古典籍善本展示即売会」でございます。。
(十年一昔、、世の中は着実に変わってるのに全く進歩してない自分が怖い...)


b0283699_04532.jpg今回は創業110周年記念。
90年、100年の時にも見に行きましたから、
無事生き長らえて眼福に与れたのを喜ぶべきなのか、
はたまた展示品を購えるようになる見込みが絶無なのを悲しむべきなのか...(90周年の時にはいつかこういう本を買える様になるぞ!って思ったんですが、、、若気の至りであった(´ε`;)...)。
きっとブログ等で紹介されてるだろうと期待して検索したら誰も書いてないようなので、野次馬で見物に行くだけの私が頼まれてもないのにちょっとだけ御紹介。。

展示品の特徴を一言でいえば、
正に日本文化の王道的品揃え。。
物語・和歌といった王朝文学から古記録、仏典、漢籍、図像集、版本、浮世絵まで数は50件と少ないながらも例の如く涎が落ちそうな(じっさい落としたら非常にマズイことになる)本が集まっております。


 ①源氏物語【54帖、鎌倉後期写(補配補写あり)、伝・猪苗代家旧蔵】、3億2千万円b0283699_19103654.jpg

近世初期写の「花宴」「須磨」「明石」の3帖を除いてほとんどが14世紀に遡る古写本。
40帖以上が別本系ということですから本文の価値は精査しなければ正確には分からないんでしょうが、数ある源氏の古写本の中でもベスト20か30くらいには入る重要本であることは確か。
今でこそこうした新出本の本文を比較するのもさほど難しくはなさそうですけど、最初に数十の諸本を手探りで校合した池田亀鑑先生の偉業は改めて凄まじいですね(私なんか谷崎訳で1回読むだけでいっぱいいっぱいなのに...)。
猪苗代家伝来というのは単なる権威付けのための仮託かな?


 ②白描源氏物語絵巻(54帖揃)【19巻(紙高10.5~12.5cm),室町写(7巻江戸写)】、2億2千万円
いわゆる小絵の白描源氏。普通中世の紙は30×50cm余のサイズですから横に2分,3分して用いれば縦10~15cmほどの小さな絵巻ができあがります。これが小絵。。現存する最古のものは14世紀前半に遡る聖徳太子の事績を描いたものですが、典型的な小絵というと女性が喜びそうな題材を扱った15~16世紀頃に制作されたものが中心。土佐光信(工房)が描いた幾つかの作品が有名で、彼の周辺が小絵流行のおおもとである可能性が高そうです。この手の白描源氏絵巻もしばしば伝承筆者を光信の娘(画を能くし狩野元信に嫁いだとも)とするものがあり、実際にそうした土佐派による原本的な作品があったのかも知れません。ただし現存する作例は多様で共通の祖本などなさそうですし、画風も素人っぽいものが多くて宮廷で絵の上手い女御などが手遊びに作ったものかとも推定されています(当時は絵の具の調合から始めなければならない彩色画はハードルの高い職人仕事と思われていたのに対して、普段使い慣れた墨と筆で描ける白描画は中国なら文人、日本なら貴族でも嗜める優雅な趣味と思われていました)
一瞬、2億2千万!?高っ!と思いましたが何と19巻もあるということで納得(宇治十帖7巻は江戸に入ってからの補写ということですが)。こんな浩瀚な白描源氏は聞いたことないわー!スペンサー・コレクションの6巻本がこれに次ぐ位ですかね。掲載された図版で見ると2種の画風があり、一方はかなり本格的な土佐派っぽいもの(下図。もう一方は明らかに素人画家)。これはじっくり実見する必要ありだな~。
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 ③明月記【1巻(29.6×1023.6cm)、寛喜元年5月・6月条】、3800万円
『明月記』 とは言うまでもなく藤原定家(1162-1241)が生涯に亘って書き連ねた膨大な日記。。当時の貴族社会では過去の先例に対する知識の有る無しが一家の沽券に大きく係りましたから、多くの貴族が自身や子孫の後鑑とすべく日々の細々とした記録を日次記という形で書き残しました(一方 『蜻蛉日記』 のような女性が書いた日記は今で言うとプライベートな回想録に当たります)。中でも明月記は定家という人物の重要さと余計なエピソードが比較的多いことから読んで面白い日記の一つ(難しいけどね)。今も大半が冷泉家に伝えられて国宝に指定されていますが、庫外に流出したものも少なくありません。
今回の売り物は1229年5~6月のまるまる二ヶ月分が残る自筆本。これまでは慶長写本でしか知られていなかった部分ですし(つまり1615年以降数十年の間に冷泉家から出た可能性が高いということになります)、『明月記』は掛軸になった断簡でも百万円単位の値段が付きますから10メートル以上の巻子本で3800万円というのは意外と安い気がしますね。
近年の冷泉家の文庫調査の大きな成果の一つとして、これまで定家の自筆と思われてきた写本の中に定家の筆跡を真似て他人が写したものが多く含まれていることが明らかになってきました。つまり筆耕者として動員された家族や使用人が何人もいたらしいんです(そうでなきゃあんだけ膨大な写本は残せませんわな)。『明月記』も例外ではなく、大別すると①定家が実際にその日付の頃に書いた原本、②定家自身による清書本、③他人による清書本、の3種があるようで、筆跡の変遷などを基に清書や加筆推敲の時期を探るといった研究も盛んに行なわれています。下の1巻は紙背文書がある一方、整然と余白行なく書かれていることや上下の界線の存在から②の定家自筆の清書本とするのが妥当でしょうか。
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 ④地蔵縁起絵巻【1巻(紙高30.8cn)詞5段・絵6段、鎌倉後期写(旧法然寺本)】、1億6千万円
地蔵菩薩をテーマとした絵巻は、矢田地蔵縁起絵のように特定の仏像の縁起を描いたものと様々な地蔵の霊験・利生譚を集めて絵巻にしたものの二種類に大別できます。さらに後者には中国の話を絵巻化したものと日本の話を絵巻化したものがあり、14世紀以前に遡る作品としては中国の霊験譚を集めたものとして妙義神社本と東博本、日本の霊験譚を集めたものとしてフリーア本と旧法然寺本(今回の絵巻です)の4件(各1巻、おそらく元は各々もっと浩瀚だったもの)が知られています。フリーア本と④とでは明らかにフリーア本の方が古くて優れた作例なんですが、1図だけ共通の図様があって画風からもフリーア本が④の直接の祖本かも知れません。。また④と東博本は画風は全く違うのに詞書の書風は同一筆者かと思われる位そっくり!(不思議だ~)。率直に云ってしまうと④はこれら4件の鎌倉時代の地蔵霊験絵巻の中ではちょっと作行が劣る感じで、詞書が東博本と共通でなければ室町時代の作かなと思うほどなんですが(東博本はまず間違いなく14世紀前半頃の作)、実は私は一度も実見したことはないのであまり適当なことは言えませぬ。。再び個人の所蔵に入るともう生きてる間には見られないかも知れないので気合を入れてしっかり見てこなければ...。
「子とろ子とろ」という昔の鬼ごっこを描いた有名な段があるのでそこを開いててくれると嬉しいな~。

 ⑤初代鳥居清倍「市川団蔵の金王丸」【大々判(約53×32cm),宝永頃】、1200万円
清倍いいですね❤。初めて見る図柄ですけど保存状態も抜群で今回出てる浮世絵で貰えるとしたら迷わずこれ!(買えよ、って話ですな)。たしか浅野秀剛先生も以前一番好きな浮世絵として清倍の「市川団十郎の竹抜き五郎」を挙げられてましたけど全く同感です。いま個人的に日本美術関係で最も開催して欲しい展覧会は「初期鳥居派展」だぜ!(もう若冲はいい...)。
千葉市美術館あたりで頑張ってくんないかな~。
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  ⑥田中親美・模写「西本願寺本三十六人集」【34帖、各頁20×15cm前後、20世紀】、6500万円
親美翁(1875-1975)については以前五島美術館の記事でも触れた記憶がありますが、数多の平安の古筆や装飾経、絵巻などを料紙から復元して完コピしまくるという空前絶後の偉業を残したエライ人。。以前翁制作の素の料紙が売られてたのは記憶にありますけど、こんな浩瀚な模本が売り物になってるのを見たのは初めて!(◎_◎;) ジェジェ!それでも近代のコピーに6500万は高いんじゃないの?と思う方もいらっしゃるかも知れませんが、これだけの多種多様な料紙を一から復元して千数百頁に亙る和歌を一流の書家に染筆してもらったらとても1千万やそこらじゃ収まらないはず。。翁制作の復元模写は既に単なるコピーを超えた評価を受けてますし、本物なら2,3枚でこの値段だしね~。
西本願寺本の模写としては1902~07年頃に35帖を制作(内11帖を東博が所蔵)したのを手始めに、大正9年の年記がある模本も知られていますが、目録に制作年が書いてない所を見るとこれはさらにその後に作られたものでしょうか。図版で見る限りでは東博本よりこなれていて完成度が高い印象。
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ちなみに親美模本を代表する「平家納経」の場合は結局5セットの模本が制作されたと言われています【厳島神社に納めたものと翁自身の控え分、後に作られた益田家(→東博)、大倉家(→大倉集古館)、安田家への3本】。
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田中家(福田家)というと「年中行事絵巻模本」の所蔵でも有名ですが、翁は模本制作を依頼された際には必ず2セット制作して一つを自らの手元に残すのを常としていたとか。今でもお宅には展覧会できる位色んな作品やら資料やらが残ってるんだろうな~。いつの日か拝見したいもんですわ。。

(参考;右は原本「能宣集」の当該頁。こうして見ると原本の保存状態の良さにもビックリですね!) 

 ⑦唐人絶句【存21冊(1冊欠)、1190-95年刊(1221-23年修)、惟高妙安旧蔵】、4億6千万円
b0283699_0202439.jpgb0283699_027387.jpgんーむ、4億6千万ね...
21冊で割れば宋版としてはそれほど高くはないか...本邦に古くから伝わったものなれど大陸帰国決定かな~。

それにしても絵に描いたような欧陽詢風の見事な書体。。うっとりしますね~。浙江あたりの刊と見て良いんでしょうか。
小さな字なら明朝体をはじめとする現代の活字も悪くはないですが、これ位の大字になると宋人の版下による整版の美しさには敵いませんね。せめて国語ぐらいはあのマヌケな教科書体を止めて欲しい...。
第18冊を欠くのが惜しいですが、版面の品格はそれを補って余りあります。

 ⑧芥子園画伝・二集【全4冊(蘭竹菊梅)、康熙40年刊】、2800万円
b0283699_0323640.jpgb0283699_0363019.jpg何年か前に大東急記念文庫本の複製本が出ましたが(15万円!当然買えず)、今回の目録解説によるとそれよりも早印という貴重なもの。若干の虫損はあるもののこれだけ美しい康熙本は日本・中国に数本しか残っていないでしょう。俗な浮世絵版画の清雅なルーツの一つ。


<一誠堂書店創業110周年記念古典籍善本展示即売会>
ホテルグランドパレス2Fチェリールーム にて(地下鉄九段下駅徒歩2~3分)

   10月11日(金) 午前11時~午後5時
   10月12日(土) 午前10時~午後5時

の両日開催です。

誰でも無料で気楽に見学できますから(バッグ類は預けなきゃないので手ブラがお薦め)、
お閑な方は秋の一日 【古本見物】+【神保町でカレー】 など如何ですか?
もちろんお金があれば購入も可能ですよ!!(申し込み先着順也)。


≪ さっそく行って見ました ≫
金曜日のお昼頃に速攻で拝見。。50点中10点くらいに既に予約済のシールが貼ってありましたよ。
上に紹介した中では「明月記」と「芥子園画伝」がSold out (たしかにどっちも安めの値付けな気がしてました)。一方「唐人絶句」は何十年も前から一誠堂の在庫にあったみたいですし、前回100周年の時の目玉の一つだった「新撰和歌髄脳」(1億2千万円)も今年の8月に文化庁に売れたばっかりですから、資本のある骨董屋や古書肆というのは優雅な商売で羨ましいですな。。
「地蔵縁起絵巻」は図版で見るよりもずっと繊細で感じが良かったです(やはり実見しないで適当なことは言えませんね)。巻物は怖いので裸で置いてあった「源氏物語」だけ頁を捲ってペタペタ指紋付けてきましたよー(# ̄ー ̄#) 。
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# by brevgarydavis | 2013-09-15 15:22

ハンコ が支えた 『キングダム』 の巻。

マンガ『キングダム』面白いですよね。
最近アニメでも放送されてたりして(NHK日曜深夜)、ここ何巻かしばらく買ってなかったんですが、、
また読み返して残りの巻、大人買いしちゃいました( ̄ー ̄)。
読んでない方に説明すると、
時は戦国末期、中原を統一すべく台頭する秦の国の片隅から、無謀にも大将軍に成り上がろうとの
望みを抱いて戦いに明け暮れる少年、信を中心とする物語。
なんといっても戦争・戦闘シーンの描写や緊張感が出色。血湧き肉躍るとはこのことですね。
ただ人がたくさん死ぬので読むと疲れる...
中高年の男性だったらワ×ピースなんかより絶対面白いと思うので是非御一読をお勧めします。
(アニメはそこまでじゃないかな...)。


で、今日はマンガの話じゃなくて、ちょろっとハンコの話なぞ。
b0283699_23233816.jpg美術関係のブログでハンコの話って言ったら、篆刻趣味とか書画鑑定の落款印章の話だと思うでしょうが、ワタクシそっち方面の知識はまるでありません。
かろうじて空也の最中が読める位...

でも古河の篆刻美術館には何度か行ったことありますし(親戚の家から徒歩5分だからだけど)、去年は念願の西冷印社も訪れることができました。
この両方行った者の中で私ほど篆刻に疎い人間はまずいないはず(`Д´)キリッ! (何の自慢じゃ...)         
              
 【西冷印社】

で、そんな私が前からちょっとだけ興味を持っているのが古銅印というヤツ。。

東アジア(ほとんど中国)の印章の歴史は次の三つの時代に分けて考えるのが分かり易いと思います。

① 封をするために粘土(封泥)に押した古銅印の時代(玉や金銀製も若干は有)【戦国~4,5世紀頃】
  (日本に古くから伝わる印でこれに該当するのは志賀島出土の金印だけです)。
② 文書の真正性を保証するために朱や墨で紙に印影を捺すようになった時代【4,5世紀頃~現代】
  (古書画の鑑蔵印を除くと印的には影の薄い時代です)。
③ 銅の鋳造印に替って石材を刻した印が主流になり、文人の間に篆刻趣味が広まった時代【明~現代】

①の古銅印、古代には様々な用途に使用されたんですが中でも重要なのは検&檄

中国で紙が書写材料として一般的になるのは大体2世紀以降(蔡倫紙登場以降)の話でして、、
それ以前には竹簡や木簡が用いられました。
基本的には、書物は竹簡を綴った冊に書かれ、短い通信文・指令文の類は木簡に書かれたみたい。

中でも役所間の通信など重要な文書の場合には、木簡に用件を書き、その上に内容が読まれない&
改竄されないよう別の木の板(これが。宛名等が書かれることもありました)を重ねて紐で縛り、その上に粘土(封泥)を付けて役所や責任者の印を押すことによって封をしました。
封泥を壊さなければ紐は解けない理屈ですね(西洋で手紙やボトルを封蝋+印璽で封じるのと同様)。
紙と違い木簡は文面を削って書き変えることが容易なため、こうした封緘の工夫は必須でした。
多量の木簡や品物の場合には袋や筥にそれらを入れて結束し、小さな検で封をしていることもあります。

一方の、実物のイメージが浮かぶっていう人はほとんどいないと思いますが、「檄を飛ばす」という言い回しは普通に使われる言葉として今でも残ってますよね。
あるいは『魏志倭人伝』の中に魏使の張政が卑弥呼や壹与に対して「檄を為して告諭す」、という記述があったのを思い出す古代史ファンの方もいらっしゃるかも知れません。

「檄」というのは軍事や説諭など強い調子の指令や報告を発する時に使われる形式だと言われます。
ですが不肖ワタクシも最近までその檄というものが具体的にどんな形をしてるのか知らなかったんです。

b0283699_16283361.jpgだから冨谷先生の本で檄の詳しい説明がなされているのを発見した時には大変感激したんですよ~。
(左の本に写ってる多面体の木の棒2本が檄!!)

上の方に見える窪みが封泥を嵌める部分。
つまり檄の場合は印が開封防止のためではなく、指令に権威や公信力を与えるためのマークとして使われていたのだろうということが分かります。
また封泥の背面に紐の痕が無いものがままあることも、こうした檄のくぼみに嵌めて使われたのだと考えれば納得できますね。

戦国時代や秦漢時代の「檄を飛ばす」ってのは当に
この手の木の棒きれを急ぎの便で送り付けること。。
それが転じて大声で人々を鼓舞することもそう表現するようになったと思われます。








具体的にどんなことが檄には書かれてたのか冨谷先生の著作から一例を孫引きさせていただくと、
 (上の表紙の激ではありません)

「建武四年九月戊子従史閎が申し上げます。出張でこの月十月に橐他候官に行きました。その折、橐他守尉馮承が次のようなことを言っていました。今年二日、胡虜が酒泉・肩水塞に侵入し、焦鳳の牛十余頭、羌の女子一人を略奪し、率いて西に向かって河を渡り、虜の四騎は都倉西に止まって放馬し、六十余騎は金関の西に駐留しました。九月九日日蚤食時に先行隊は金関西に到着し、門下掾の誼等はみな金関にいて連絡できませんでした。閎等は候官におります。即日餔時、土煙がたち烟火が石南亭に送られ昏時に火遂、恐らくは胡虜に囲まれ籠城していると思われます。閎は即日夜に居延からの部隊と合流し、王常に伴われて帰還、広地候官胡池亭に到達して止まっております。虜はつけ上がって河の水草伝いに北行し、虜・・・(不明)・・・居延鄣候にお願いいたします。書き写した文書を受け取ったら・・・(不明)」
【『額済納(エチナ)漢簡』2000ES9SF3;4E、内モンゴル自治区文物考古研究所所蔵】


といった具合。。

どうですか!この二千年前とは思えない文書行政の徹底ぶり!!漢帝国恐るべしですね!

全国数千(数万?)の郷や亭からのこのような報告が大量に中央に上がり、それによって中央は状況を把握した上で各地に指令を逓送する、それによってあの広大な帝国が数百年間維持されていた訳です(例に挙げたのは檄だから緊急事態ぽい文章だけど、実際にはもっとのんびりした文書も多し)。
秦の始皇帝はこうした木簡を一日最低一石(30kg位)読んで決済するのを自らのノルマとしていたとか。

行政・司法・官僚制といった東アジアの様々な制度はその淵源を遡ると秦の諸制度に行き着きます。
日本人に影響を与えた思想としてふつう挙げられるのは、仏教、儒教、あるいは神道、道教あたりまでで、韓非や李斯といった法家の連中が設計した制度が今も私たちに甚大な影響を与えていることはあまり意識されません。。これはちょっと残念な事態。
秦や漢って古代的で酷薄なイメージもある一方、理想的な制度を余計なことを顧みず敷衍したような初々しさや明朗さ、剄直さもあって個人的には好きな時代なんだよな~。
まぁ後の爛熟してもったいぶった、なよなよの中国人もまったりして悪くはないんですがね。。


いやいや、閑話休題。。ハンコの話をしてたんだった。。

なんでも聞くところによるとこうした戦国~漢時代の古銅印っていうのは
辺地の草原などにポツリポツリと落ちてるのを拾って来るんだとか。。

つまり...
戦いに斃れた将兵たちが身に付けていたものらしいんです..(((゚Д゚)))ガクブル。
確かに封泥だったら封泥を付けた文書のやり取りをしてた役所の趾などからまとまって出土することもあるでしょうけど、個人の私印じゃ埋ってるのは墓地か古戦場ぐらいしかなさそうですもんね...。

『キングダム』 でも主要人物のまわりの人たちはバタバタ死んでいき、戦いの後の戦場は死屍累々、
鬼哭啾々たる有様に描かれます。
死を賭して戦った彼らの夢の跡として残ったものは僅かに草の間の小さな銅印のみ...そんなことを思ってガラスケースの向こうのハンコをじっと見つめると篆書の筆画がどうとかいう以前に皆さんも胸に迫るものがあるんじゃないでしょうか。。
ですから著名な篆刻家であり古印の収集家でもあった園田湖城翁も、古銅印を捺して印譜を作る際には香を焚くのが常だった、と(-∧-)合掌・・・。。


我が国の古印の蒐集として知られるものに

藤井有鄰館、岩手県立博物館(太田夢庵旧蔵品)、和泉市久保惣記念美術館(園田湖城旧蔵品)、大谷大学(羅振玉旧蔵品の一部)、東博(陳介祺旧蔵の封泥など)、書道博物館、寧楽美術館、さらに故・菅原石廬氏の収集品などがあります。総数では一万方を超える古印が各地に所蔵されているとのこと。。

始皇帝の兵馬俑なみの大軍勢が関西中心に揃ってるわけですね。

夜も更けた丑三つ時、今出川通りあたりで馬の駆ける音が聞こえたら、意外と日本人じゃなくて有鄰館と大谷大学あたりの軍勢が夜な夜な戦ってる音なのかも知れません...。仏教が中国に伝わる以前の連中だから南無阿弥陀仏の類じゃ退散しねーだろーな...。
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# by brevgarydavis | 2013-09-09 14:52

美術史の小窓 その10 ” 「えことば」 とは呼ばないで! ”

時々、絵巻のことを絵詞(えことば)って書いてる本がありますよね。
例えば「伴大納言絵詞」,「平治物語絵詞」,「蒙古襲来絵詞」等々。
最近では美術関係の本よりも日本史など他分野の本に多いみたい。

でもこれ、しばしば指摘される通り本来の意味からすると明らかな誤用なんです。
中世では絵巻のことは単に「~絵」と呼んでいました。「源氏絵」とか「伴大納言絵」とかね。
では「絵詞」とは何かというと、絵巻の詞書の部分のこと。
つまり「絵詞」=「絵+詞」ではなく、「絵詞」=「~絵の詞」の意。

例えば中世の記録で「~絵詞を進上」とあれば絵巻を献上したってことじゃなくて、エライ人から依頼されていた絵巻の詞書部分を清書し終わったので提出した、ということですし、
字だけで地味なのであまり目にする機会はありませんけど「~絵詞」と称する(主に)冊子本は寺院や図書館などに結構な数が所蔵されています。

物語絵巻の場合はたいてい既存の物語(又はそのダイジェスト版)に絵を付けて絵巻を作りますから、絵詞にしちゃうと元の物語に戻っちゃうわけでわざわざ絵詞を写すということはめったにないんですが、
祖師の伝記や社寺の由来を語る宗教絵巻の場合は文章から新たに起草されることが多く、詞書だけでも写したいという需要も当然少なくなかったでしょう。有名な宗教絵巻を所蔵しているお寺などでもその絵巻から写された絵詞も幾つか所蔵しているということはよくあります(蔵書目録とか聖教目録の類に掲載されているのであまり気付かれませんが)。岩波文庫の「法然上人絵伝」や「一遍聖絵」なども文庫化の目的・使い方ともに正に絵詞的なものと言えますよね(絵の写真も一部載ってるけどね)。

b0283699_16392756.jpgではこうした絵詞の誤用がどうして広まったかと言うと、昭和30年代頃に国宝・重文の指定名称として絵巻の意味で絵詞が使われたということが大きいと思われます(誰のせいかは武士の情けで追及しませんが…)。
美術史以外の研究者や自治体などが絵詞という言葉を好んで使うのは、文化庁の指定名称に従うのが正式だろうという意識があるからなのかな~。

この誤用、少なくとも江戸時代からあったみたいで寛政6年(1794)刊行の『好古小録』でも既に絵詞が乱発されています(いつから始まったのかはさらにそれ以前の文献を調べる必要がありますね)。





『好古小録』(巻上・部分)、寛政6年、早稲田大学図書館蔵

それじゃあ次に今一番普通に使われてる「~絵巻」っていう言葉が「~絵」の替りに使われるようになったのはいつ頃からでしょうか?
日本にはOEDのような頼りになる歴史的辞書は残念ながら無いので、一応 『日本国語大辞典』を調べてみると、絵巻の用例として挙げられてるのがやはり『好古小録』!
「本邦古来仏教盛ニ行ハレ因果応報ヲ以テ勧善懲悪ヲナスノミ。故ニ画巻ノ如キモ皆仏教ニモトヅキ…」と、「餓鬼画」(東博本か京博本の餓鬼草紙のことか)の解説から用例が引かれています。
なるほど、画巻(ガカン)を「エマキ」と読ませての引用ね。。近世以前だと「画」はほとんどの場合 “エ(ヱ)”と読むので正しい引用だと思いますが、だとするともしや「エマキ」という言葉は中国語の「画巻」を訓読みすることから始まったということか...。

一般的に現在の美術用語では「絵巻(エマキ)」と「画巻(ガカン)」は区別して使われています。
絵と詞でストーリーを伝える巻き物が「絵巻」、人物・花鳥などを列挙した絵や横長の山水画のような詞のない絵だけの巻き物が「画巻」です。
中国でも前者のような絵巻形式の絵も特に古い時代にはちゃんとありましたし、我が国の絵巻も隋唐から伝わったそうした形式を基にして成立・発展したものと思われます。が、彼の国では詞と絵が一体となった作品というと訓戒や経典を題材としたようなお堅いモノが多く、日本で発展したような純粋に見て楽しいマンガ的な絵巻とはかなり異質。。さらに時代が下るとストーリーを伝える絵画形式は挿絵本に収斂していくため絵巻的な表現はますます振るわなくなってしまいます。
結果、中国においてヨコ長の絵で支配的になってゆくのは画巻タイプの山水画や花卉画の類。それが鎌倉~室町時代の日本に伝わって雪舟の山水長巻のような名作も生み出される訳ですが、画巻はいつしか「エマキ」と訓読みされて絵巻という字を当てられ、画巻と絵巻の区別も生じていくという...日本の中国文化の受容の仕方ってーのもなんとも複雑怪奇なことで...(まぁきちんと結論を出すには江戸時代以前の「画巻」「絵巻」という用例をもっと探し出して検討する必要がありますが...)

なお、画巻を訓読みして「エマキ」だと云いましたが、正確には「エ(歴仮名ではヱ)」というのは音読みで和語による訓ではありません。「ヱ」は本来 “絵” の呉音で中国語由来の音。
ピンとこない方もいるかも知れませんが法会(ホウヱ)のように “会” の呉音が「ヱ」であることを考えれば納得できるでしょう。それを “画” の読みにも当てたというわけですね。

つまり 、、、
当時の倭人には絵や画の訓に当てる固有の大和言葉は思いつかなかった
(=当時の日本列島には絵や画に相当するものがなかった) らしいんです!!
勿論それ以前の我が国にも “絵のようなもの” が無かったわけではありません。
銅鐸や土器の線刻画とか装飾古墳、或は織物や刺青の文様なんかがすぐに頭に浮かびますよね
(おそらく日本語ではそれらは “あや(文・彩)” とでも呼ばれていたのでしょう)。
でも我らがご先祖様にとって大陸から渡来した写実的な絵画はそれらとは全くの別物に見えたらしく、
絵や画に「アヤ」という訓が当てられることはありませんでした。


ちなみにそうした意味での現存する日本最古の”絵画”は何だかご存じですか?

おそらく623年頃に描かれた法隆寺金堂の釈迦三尊像台座の板絵か、
622~623年頃に制作された中宮寺の天寿国繍帳のどちらかだと思います。

年代が近いのは偶々ではなくどちらも厩戸皇子(聖徳太子)が亡くなったのを悼んで作られたものだから。
ただ天寿国繍帳の方は下絵を描いた四人の絵師の名前まで分かってるんですが、
染織品という点で “最古の絵” と称するのは少しく憚られますし、
一方、釈迦三尊像台座の方は絵が剥落してしまってほとんど見えないという難があります。
文句の出ない “絵” となるとその1,2世代後、7c中頃の「玉虫厨子」の板絵ということになりますか。

b0283699_194213.jpgb0283699_194444.jpgb0283699_19558.jpg天寿国繍帳               釈迦三尊像台座                玉虫厨子(捨身飼虎図)

しかしまぁ、法隆寺金堂という一角は、建物は世界最古の木造建築だし、焼けちゃったけど壁画は初唐様式の大傑作だし、釈迦三尊像や四天王像は日本最古級の仏像だし、、
まさに文化財界の銀座鳩居堂前のような所...。
これではいくら日本最古の絵が描いてあるといっても地味な台座に注目する人なんてほとんどいないですよね(注目しても見えないし...)。
え?眼を近づけたら山とか描いてあるのがよく見えた?
...お客さん、それ鎌倉時代に造られた阿弥陀三尊像のほうの台座だから...


結論。。
絵巻は巻とか物語とかは取っ払ってシンプルに「~絵」って呼ぶのがプロっぽし。
ゆめゆめ「~絵詞」とは呼ばぬよう。。修学旅行以来法隆寺行ってない人は行くべし。。
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# by brevgarydavis | 2013-08-20 16:40

【承前】 日の本の癩者に生れて...その2(企画展示の巻)

今回は前々々回の続きで国立ハンセン病資料館で開かれている企画展、
「一遍聖絵・極楽寺絵図にみるハンセン病患者~中世前期の患者への眼差しと処遇~」
を御紹介。

小さな展示室なので展覧に供されているものは多くはありません。
1.「極楽寺境内絵図」と若干の出土品(極楽寺蔵)。
   (14世紀第2四半期頃の極楽寺最盛期の様子を描いた江戸時代の境内図)
2.「一遍聖絵」(清浄光寺ほか蔵)の複製と拡大パネル。
   (正安元年(1299)に制作された有名な12巻本の絵巻)
3.「一遍上人縁起絵(遊行上人縁起絵とも)(清浄光寺蔵)の複製(6/22~7/5のみ江戸時代の写本を展示)
   (14世紀初めに制作された一遍と他阿真教の伝を描いた10巻本絵巻の模本の模本)

と、これだけ。しかも1以外は複製ですから特別興味があるっていう人じゃなきゃ行く価値ないかも。。
しかし私はなにげに特別興味のある人なのであった...。


実際行ってみると、複製は良く出来てましたし拡大パネルも想像以上に効果的。ひじり絵全巻を是非拡大パネルで見たいぞ!と思った位。展示品が少ないなりに一定の満足感は得られました。
一方残念だったのは、単に中世の絵の中で癩者や施療施設が描かれている作品を並べました、っていう以上の意図をほとんど感じられなかったことですね。ハンセン病資料館ということで、仏教が近代以前の癩病差別にどう加担し一部の宗教者がそれにどう抗ったのか、それが民衆の癩病観にいかなる影響を与えたのかなど、もっと突っ込んだ解説を期待したんですがそういう気合いの入った展示ではありませんでした。
多分学芸員の方々の専門が近代以降のハンセン病史中心で、中世史や絵画史に詳しい人がいないのではと想像しました。。

それじゃ不肖わたくしが...というような学識は残念ながら無いので以下素朴な感想を二つ三つ。。
 (大体「一遍聖絵」についての話ですけどね)

この「一遍聖絵」、数ある日本絵画の中でも様々なアプローチを許す本当にたぐい稀な作品。
逆に言うと「一遍聖絵」を通して他の絵では窺えない鎌倉時代の多様な一面が垣間見えるということ。
70年代くらいまでは単純な仏教史&美術史方面からの研究が主でしたが、近年はそれに加えて次の二つの研究手法が目立つようになってきました。

一つ目は、ひじり絵に描かれた多様なモチーフを、文字資料に残らない歴史を解明する手がかりとして用いる絵画史料論的アプローチ。。
昔からある図像学的研究の延長とも言えるけど、民衆の生活文化に光を当てようとする日本の民俗学やフランスのアナール学派などの影響を受けて試みられるようになった手法という面が強いのかな~。我が国の中世の絵巻物は世界的に見てもこの手の材料の宝庫なんですが、中でも「一遍聖絵」は今回の癩病患者の様子などのように普段他の絵巻に登場しないモチーフを豊富に含む異例の絵巻。
黒田日出男さんの「絵巻物と中世身分制」(『境界の中世、象徴の中世』,東京大学出版,1986所収) あたりを嚆矢として既に多くの研究があります。

もう一つのアプローチは、最近やたら目にする「まなざし」論。多分フーコーの"le regarde" をヒントに美術史では80年代以降ノーマン・ブライソン(江戸時代に関する本を沢山出してるタイモン・スクリーチさんの先生ですね)なんかが、絵の中の"gaze (なまざし)" を読み解くっていう手法を提案し始めたんじゃないかと思うんですが...(ここらへんのムツカシイ話は疎いので信用しないで下さい)。まぁ要するに芸術作品の中に潜む隠された前提としての”上から目線”とか”男目線”とかを見付けようという話(多分)。西洋絵画によくある、意味もなくオッパイぽろんなんていう絵が male gaze(男目線)の絵だ、なんてのは私にも分かりますが、共感できない強引な説も多いような気がするかな...。

ここ20年位はとりあえず「まなざし」とか「視線」って付ければ今時の研究っぽいだろう感じで乱用されてる感もあったりして...(この展覧会でもせっかく副題に「~中世前期の患者への眼差しと処遇~」ってあるのになんのつっこんだ分析もなし!一遍聖絵ほど豊富な突っ込み所がある絵は他にないのにね~)。

「一遍聖絵」に癩者など被差別民の描写が多いというのも、結局のところ他の絵巻制作者とはそれらの人々に対する人間観や眼差しの違いが根底にあるからに他なりません。多くの絵巻を横断的に見ていくと「年中行事絵巻」などに代表される他の中世の絵巻においては、民衆は貴族階級に対置される軽躁かつ周縁的な存在として”上から目線”で描かれるのに較べて、一般民衆から賎民に至るまでを分け隔てなく誠実な生活者として描く「一遍聖絵」の視線は極めて特異なものであることが実感できます。

そうした違いは実は2の「一遍聖絵」と3の「一遍上人縁起絵」との間にもあるんですよね。

「一遍聖絵」の方は異母弟とも言われる聖戒を中心に恐らくは純粋な一遍追慕の念で制作されたもの。
宋元の山水画に触発されたかと思われる広漠とした山河表現を背景に、賦算一筋に決然と歩み続ける一遍の姿が英雄的に写し留められています。

それに対して「一遍上人縁起絵」の方は、他阿真教が一遍の正統な後継者であることを示そうとする宣教的意図が明白な作品(全10巻のうち後半6巻は真教伝)。鎌倉後期に多く制作された他宗派の祖師絵伝類と同じく説明的描写が多くて「一遍聖絵」に較べると単調かつ類型的な感は否めません。

癩者の描写も、今回の展示でも提示されていた巻三の甚目寺で施しを受ける場面を除くと、登場する回数も少なく実感の伴わない絵画的イディオムに堕してしまっている感があります。あまつさえ巻六の詞書には「(もし教団の戒を破ったら)今生にては白癩黒癩となりて、後生には阿弥陀仏の四十八願にもれ三悪道に堕て永く浮かぶべからず」と誓う場面さえ出て来ます。「約束を破ったら癩病になっても文句は言いません」というのは中世の起請文の決まり文句ですが、教団を頼りにしていた癩者達に対してはいかにも配慮のない言葉ですよね...。当時は病者の側も神罰だ業病だというのを当然のこととして受け入れていたのかも知れませんが、信仰とは当人が阿弥陀仏と結縁すること以外の何物でもないと考え、教団を作ることにも否定的だったと言われる一遍が生きていれば、何を余計なことをと一蹴したに違いありません。


b0283699_16404836.jpg



(つづく)
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# by brevgarydavis | 2013-07-31 16:51