その思いはプライスレス...若冲や芦雪ならマスターカードで。。

早くしないと又せっかくの展覧会が終わっちゃうので、、ハンセン病資料館の企画展示の前に
今盛岡で開催されてるプライスコレクション展を軽くご紹介。
 (といってもあんまり展覧会自体には触れませんが...)

美術に興味のある方は既にご存じの通り、米国の江戸絵画コレクター、ジョー&エツコ・プライス夫妻が幾許かでも東日本大震災の被災者はじめ東北の人たちの慰めになれば、とコレクションを貸与することを申し出てくれて実現した展覧会 (かたじけないことですね...(´;ω;`))。

私が行ったのは仙台での最終日、かつゴールデンウィークの最終日というゲロ混みの仙台市博物館。
おかげでほとんど図録買いに行ったようなもんでしたわ~(そしたらAmazonでも売ってるし)(爆)。
ちょっと前にテレビでこの展覧会で来てる芦雪の絵を紹介してるの見たら(テレ東で毎週土曜夜10時に放送してるあれ、なんていう番組でしたっけ?)、岩手県立美術館での展示が比較的新しい館だけあって一番快適に見られそうな感じかな(7月15日まで)。
あるいは東京方面からの交通費を安あがりに済ませたい方は、夏休みに福島県立美術館で見るというのもおススメです(7月27日~9月23日)。


しかしまぁー最近の若冲人気は凄いですな。。
この展覧会のタイトルも
「若冲が来てくれました」ってのがデカデカと。完全若冲単押し。
100点以上の出品作のうち若冲は17点だけで他の人たちも沢山来てくれてるんですけどね。

2006年に東博で開催されたプライスコレクション展がその年の1日当りの入場者数世界最多の展覧会になった時も驚きましたが、去年ワシントンD.C.のナショナルギャラリーでやった「動植綵絵」の展示がやはりアメリカでの2012年1日当り入場者数最多の展覧会になったのには更にビックリしました。

だって”Jakuchu”なんて言ったってアメリカではほぼ無名。。
それが過去のナショナルギャラリーでのモナリザ展やツタンカーメン展、ゴーギャン展、フェルメール展といった歴史的なブロックバスター展に匹敵する入場者数だったというんですから日本人としては誇らしいのを通り越して「なんで?」という気持ち(実は私、そこまで若冲好きでもないんですわ...)。

ワシントンに桜が贈られて100年記念だったとかNYタイムズはじめ展評が絶賛してたというのもありますが、行った人の感想をネットで読むと本当に「動植綵絵」に多大な感銘を受けた人が多くて口コミで人気が広がったみたい。。
やっぱりあれだけ濃密絢爛な大連作というのはどこの文化圏の人の目でも無条件に引きつけると思いますし、Zen の絵だってのを強調してる記事や感想も多かった。。キリスト教の宗教画の連作なんかと頭の中で較べてみて、彼我の違いにショックを受けたというか、草木国土悉皆成仏みたいな東洋的仏教的世界観を感じたアメリカ人も多かったんじゃないでしょうか(田舎からサクラ見に出て来たアメリカ人観光客を買いかぶり過ぎかなー?)。


若冲の人気がこれほどまでに至ったのには、大きなきっかけが二つありました。
まずは1968年、辻惟雄氏が「奇想の系譜」(『美術手帖』誌上に連載)で若冲を取り上げたこと。
 (これを受けて1971年には初めての本格的な若冲展が東博で開催されました)
ただこの時には知名度は美術好きの人止まりで、一般の人々の間にまで若冲という名前が浸透することはなかったと思います。

次のきっかけは2000年に京都の国立博物館で大規模な回顧展が開かれたこと。
ここからの十数年間の若冲人気はまさに右肩上がり、ブームと云っても良い位。。あれよあれよという間に若冲は北斎や雪舟にも並ぶほどの日本人なら誰でも知ってる画家の一人になりました。
Cinii で若冲関連の論文を検索してみても、
  1968年迄は6件、1968~2000年が56件、2000~2013年が123件という激増ぶりです。

でも若冲は辻先生が取り上げる以前にも決してマイナーな絵師という訳ではなかったんですよね。
存命中は京都の絵描きの中でも応挙らと並んで屈指の評価を受けていましたし、近代に入っても岡倉天心の『日本美術史』(c.1890~92) や『稿本日本帝国美術略史』(1901) などの中でもちゃんとそれなりの重みを持って取り上げられています。今手元にないけど(カビアレルギーなので小汚い古本はみんな売っちゃったんですよ~≧0≦)それ以降の一般向けの日本美術の通史でも名前くらいは出てたような記憶があります。
東大の美術史の学生でも若冲なんてほとんど知らなかった、って辻先生は語ってますが、昔の学生は一般向けの通史とかは読まなかったのかな~?確かに当時の日本美術史ではその辺の画家はほとんどマトモに論じられていなかったのは全くの事実なんですが...(なぜそういう扱いになったのかは長くなるので又の機会にでも...)。

近年の若冲再評価において辻惟雄氏が最大の功労者であることは云うまでもありません。
しかし美術史家が注目したものだけが美術という訳でもないですし、コレクターや骨董商、明治生まれの絵描きさんなど「若冲?当然知ってるよ」という人も実際にはゴマンといたはず。。
美術史と言っても受容史を考える際にはもうちょっと重層的な語りが必要という感じはしますね。
 (最近「当時は無名だった若冲が…」というような論評が多くて何となく気になってたので...)

おまけとして、
b0283699_03039100.jpg大正15年の秋に東京帝室博物館(表慶館)で開催された初めての近代的若冲展の絵ハガキ。
「動植綵絵」が相国寺以外で全幅展示されたのもこれが最初なんだそうです(秋山光夫氏解説)。
翌年には恩賜京都博物館、1961年には山形の本間美術館でも若冲展がありました。
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  (小さくて字読めないですよね。。クリックで拡大とかの方法が分んなかったので...すいません)
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# by brevgarydavis | 2013-07-20 13:52

山形で、世界の起源や石膏像の起源について考えた。

仙台まで若冲見に行ったついでに、お隣の山形県にもちらっと立ち寄って参りましたのでご紹介。

主な目的は山形美術館で吉野石膏コレクションを見ること。。
吉野石膏コレクションは印象派などの近代西洋絵画と近現代の日本画を主とするコレクションで、
西洋絵画は山形美術館に、日本画は天童市美術館に寄託されています。
(吉野石膏は現在は東京に本社がある会社ですが、元々は山形県で創業された由)

東京ではBunkamuraや日本橋三越で展示された時に見てるんですが、ぜひ本場の山形で見たいもんだとずっと思ってたんですよー。
公的な美術館(山形美術館は正確には財団法人の運営で県立でも市立でもありません)に常設展示されてるフランス絵画としては質量ともに西美に次ぐ規模のもの。ピサロ7枚とかモネ6枚など量的にもスゴイですし、セザンヌやマネなどたいへん魅力的な作品も多くあります。。その一方我が国のこの手のコレクションの通弊で、なくもがなって作品も結構あるね(まぁそこらへんは好みの違いと思って我慢するか...)。

b0283699_21205836.jpg中でも一番見たかった1枚といえば、左のクールベ作「ジョーの肖像 美しきアイルランド女」(54×64cm、c.1872)。
なぜって彼女ジョーことジョアンナ・ヒファーナンは今はオルセー美術館が所蔵するかの「世界の起源」(良い子は見ないでね❤)のモデルだと言われている女性。男なら下だけ見て顔を見られないってのはどうにも落ち着きませんよね。
でもそのために山形までしっかり「世界の起源」のコピーを持って出向いちゃう自分って...ヾ(- -;)。。
ただおケケの色が髪と違い過ぎるな…(観察は忘れませんよ(`ω´)キリッ )。

メトロポリタン美術館(1865)やスウェーデン国立美術館(1866)にも同構図のヒファーナンの肖像があり、この作品は直接的にはストックホルムのレプリカと思われますが、1872年というクールベの気力もかなり衰えて来た時期の再制作品なので図版で比較する限りでは出来はやや前二者より落ちる感じ。
それでもこういう美術史的に話のネタになる作品が日本にあるというのはありがたいことです。
 (ちなみに2001年にサザビーズで187万5750ドルだったもの)


閑話休題。。

吉野石膏って聞いてもあんまり普段の生活に馴染みはないような気がしますよね。
でも調べて見ると意外に我々一般人にも縁のある会社なんですよ~。。
まずは住宅やオフィスの壁とか天井とかによく使われてる石膏ボード。7~8割は吉野石膏の製品ということですから、皆さんもお世話になってるに違いありません。
あるいはグラウンドの白線(これは正確には石膏じゃないみたい)や陶磁器,入れ歯なんかの型として。
意外なところでは私たち日本人は日常的に石膏食べちゃってるって知ってました?
お豆腐の凝固剤として石膏(硫酸カルシウム)は普通に使われてるんですよー!
 (最近は昔ながらの「にがり」(塩化マグネシウムが主成分)で凝固させた豆腐も増えてますけど
大人の日本人だったらこれまでの人生で1キロ位は石膏食べてる計算になるようです(+_+;)...。

しかし美術に関係ある石膏と云えば、、
なんといっても美大生のデッサンとか、お金持ちのお宅の飾りに使われるあの石膏像

かつて高校の美術の授業でラボルトをデッサンさせられた時、「日本の石膏像のおおもとは東京藝大にあって、各地の美大なんかにある像はそのコピー、今みんながデッサンしてるのはその又コピーのコピーのコピーぐらいの像なんだぞ~」って美術の先生が言ってたのが妙に印象に残りました。
「ふーん、じゃあ藝大の像が一番価値が高いのか...日本中の石膏像の親子関係が知りたいもんだ」と今思えばやけに美術史的な興味を抱いたのを覚えています(当時は特に美術好きって訳でもなかったんですけどね)。。
その先生は藝大の像はボストン美術館から貰ったもんだとも言ってましたが、荒木慎也氏の研究(『近代画説』20) によるとボストンから贈られたものはルネッサンスの大形像が中心でラボルトやミロヴィ、アグリッパといった美大受験生にお馴染みのメジャーな像は含まれてないみたい。。そうしたものはお雇い外国人が持ちこんだり東京美術学校がフランスから輸入したものらしい。

同じ石膏像でも例えばV&Aのキャストコートに展示されてるような素晴らしい逸品と近所の画材店で売ってるようなカドの甘々な像とは質の面で天と地ほどの違いがありますよね。
藝大に収蔵されてる像も一応はオリジナルからのファーストコピーの類なんだろうと想像しますがどうなんでしょうか...日本の石膏像の質は大枠それ次第な訳ですからね...(ちなみに韓国の石膏像も日本の系統らしいです)。

石膏像の制作はルネッサンス思想の高まりを受けて古代彫刻の発掘が盛んになった16世紀頃から本格的に始まったようで、19世紀には古代ギリシャからルネッサンスに至る名作彫刻の石膏像を系統的に収集展示することが欧米で大流行します。
しかし20世紀に入ると、苟くも美の殿堂たる美術館に偽物やコピーを展示するなどあってはならぬというホンモノ志向が高まり、しょせん複製芸術に過ぎずオーラに欠けると見做された石膏像は次々とお蔵入りの憂き目に...。ボストン美術館の場合も場所を取るのでお払箱にしたかった所に東京美術学校からそれなら譲ってほしいと申し込みがあって渡りに舟だったみたい。

しかし考えて見れば、ブロンズ作品では鋳造によるコピーが立派に本物として展示されてる訳ですし、古代ローマの大理石彫刻だって石製ってだけで多くはギリシャ作品からのコピーに過ぎません。
石膏像だって本来はそんなにバカにしたもんじゃないはずですよね。その上今じゃもとの彫刻から新たに型を取るなんてのは認められる可能性ほとんどゼロですから、早い時期にオリジナルから制作された良質の石膏像の価値は決して低くないんじゃないでしょうか。

V&Aはじめフランス文化財博物館やプーシキン美術館など一部の美術館では今でも石膏像が立派に展示されてますが、それ以外でも欧米の歴史のある館には19世紀に作った質の高い石膏像がたくさん収蔵庫の中で死蔵されてるに違いないと想像します。

b0283699_14135397.jpgで、吉野石膏さんっ!
お願いだからどっかからその手の石膏像一括で買ってきて山形美術館に寄贈してくれませんか!
これほど石膏屋さんに相応しい貢献はないでしょ!藝大よりも質の高い日本一の石膏像コレクションが山形にあるなんて愉快じゃないですか!(東京に展示するとバカにする欧米人がいそうってのもあるけど)。どうせ向こうの美術館でも持て余してるんでしょうから、「ヨーロッパに行けない貧しい日本の画学生の為に」とか言いくるめれば激安価格で展示しきれないほど譲ってくれるんじゃないかな~。

ってなことを、とりとめもなく考えながら山形から新幹線で帰ってきたのでした...。

(徳島の大塚国際美術館なんかも聞いた時は「そんなインチキなもん作る金があったら...」と思いましたが、行ってみたら結構凄いところでしたしね)

(上の絵は山形美術館とは関係なくてメナード美術館の新収品で現在初公開中のゴッホです(10月6日まで)。むかし竹井美術館にあった絵ですけど未見なので近いうちに行って見なきゃ!)
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# by brevgarydavis | 2013-07-10 21:48

日の本の癩者に生れて...

先々週くらいですか、国立ハンセン病資料館で開催されている特別展、
「一遍聖絵・極楽寺絵図にみるハンセン病患者―中世前期の患者への眼差しと処遇―」
を見に行って参りましたよ。

国立ハンセン病資料館は西武池袋線の清瀬駅南口から久米川駅行きのバスで数分(歩くと30分位)
バスの本数も結構あるので、とりあえず清瀬駅(久米川側から行っても勿論OKですが)まで辿り着けばスムーズに行くことができます。
この資料館がオープンしたのは1993年。実はその頃から行きたいと思っていたのですが、
なんとなんと20年も経ってようやく訪問することができました。
 (実際行ってみたらウチから1時間ちょっとで行ける場所だったのに腰が重過ぎるわ~(>_<))。

展示は上述の展覧会を開催している比較的小さな企画展示室と、ハンセン病の歴史や療養所での生活を紹介した常設展示室3室とで構成されています。

まずは常設展示の方から。

ハンセン病については全然知らないという方は少ないと思いますしネット上での情報も充実しているのでごく概略だけ説明すると、かつては癩と呼ばれ、症状が進むと顔や手足が激しく爛れたり変形したりするために大変恐れられた病気。。そのため我が国では古くからもっとも穢れた存在と見做されて共同体から排除されるなど患者や家族は様々な差別を受けてきました。
1873年ノルウェーのハンセンがらい菌を発見し、細菌による感染症であることがはっきりしたことはハンセン病克服に向けた大きな一歩でしたが、当時は有効な治療法が無かったため患者を一般社会から隔離するという対応が推奨されました。
日本でも1907年には主に放浪患者(昔は今で言うホームレスのかなりの部分がハンセン病患者で占められていました)を国などの療養所に収容する制度が始まり、1931年からは全患者を強制的に隔離する政策が採られました。そのことによって最低限の生存権はなんとか確保されましたが、様々な療養所内の労働を強制されたり反抗的な者や逃亡を図った者は重監房に入れられるなど療養所というよりまさに刑務所のような扱いを受けることも少なくありませんでした。また実際には菌の感染力は弱いにも拘らず官憲が犯罪者のように取り締まらなければならないほどの恐ろしい伝染病だというイメージが一人歩きし、世間の人の患者に対する偏見や恐怖感を助長することにもなりました。
1941年、結核治療薬として開発されたプロミンがハンセン病にも画期的な効果があることが分り(らい菌と結核菌はよく似た細菌なんだそうです)、ハンセン病は菌を根絶して寛解することが可能な病気になりました。それによって多くの国ではもはや隔離は不要というごく当然の判断が下されたのに対し(もううつんないですもんね)、日本では1996年のらい予防法廃止まで絶対隔離政策が取られるという異常な状況が続きました(専門家の責任は本当に大きいです)。

例えば同じく恐ろしい感染症であった結核と較べるとハンセン病政策の理不尽さが良く分ると思います。
実際には結核の方が感染力も強く余命も短い病気。。それでも結核患者の人が強制的に一箇所に集められたり、そこから逃亡を図った人が独居房のようなところに入れられて懲罰を受けたり、すでに完治した人が退院もできないとか仮に外に出られても偏見が酷くて暮らしていけない、などとということは考えられませんよね(逃亡したくなる療養所って...)。それどころか結核には薄倖の佳人や文学青年を連想させるロマンティックなイメージさえありました。
こうした違いが生じた理由は、結局のところハンセン病患者の”気持ち悪い”外見に由来する古くからの差別意識が根底にあったということ以外に何の合理的な根拠もありません。分ってみればタダの病気の一つに過ぎないんですけどね...今でも患者さんが自らの悲惨な経験や不当な差別について発言したりすると、国の金でのうのうと暮らしていたくせにというような中傷が沢山来るそうですllll(-_-;)llll。


日本にある博物館の中でもとてもメッセージ性の強い博物館。
是非みなさんにも足を運んでいただきたい施設ですが、、
個人的には自分の来し方を批判されているような気がして背中のあたりに重いものが残りました。

思い返してみると、20年位前には自分もこうした問題にかなり興味を持っていたんですよね。

そもそものきっかけは大学に入った頃、大阪出身の子の「部落の奴らは...」みたいな発言を聞いてびっくりしたことだったと思います。もちろん部落差別という問題があるのは知っていましたが、よほど年取った人が子や孫の結婚に反対するというような程度のことだろうと思っていましたから、自分と同年代の友達がそういう考えを持っているということにとっても驚いたんです(彼の方は彼の方で日本全国どこででもそういう感覚が通用すると思っていたんでしょう)。
それまでの自分には見えてなかった一面が日本に存在することを知って衝撃を受けたという事。。
で、民俗学や差別を扱った本を毎日のように読みまくってましたし、大学院に入る時も被差別部落史、中央アジア史、日本美術史のどれを勉強するかで迷ったくらい(今更ながら食えないもんばっかだ...)。
だから何となく世間の人よりはハンセン病問題についても知ってるっていう意識があったんです。

しかしこうしてハンセン病資料館に来て見たら、頭に浮かぶのは「あぁこれは知ってる、本で読んだことある」っていうようなことばっかり。本当に情けない...
患者さんの辛さや悲しさに対してさえ何の語るべき言葉も持っておらず、純粋な同情心にも欠けている自分の傍観者ぶりに、お前は何様のつもりなんだと指さされているような気がして途中からはなんともいたたまれませんでした。
普段は過去のあやまちに対して無意識に批判者としての立場で見てしまうんですけど、今度ばかりはさすがにこんな自分では50年前100年前なら絶対患者を差別したり嫌悪する側に廻っていたに違いないとリアルに思われて背筋が寒くなりました。
ハンセン病政策には多くの間違いがあったのは確かですし、誰かが責任を取るべきだとも思いますが、それでもまがりなりにも患者さんに向き合って何十年も働いてきた人たちに対して何もしていない自分が一体なにを言えるのか。
絵や壺なら見てあーだこーだと言ってるだけで良いでしょうけど、苦しんでる人を前にした傍観者じゃ下手な加害者よりタチが悪い...せめてブログに書いて皆さんにハンセン病への関心を持ってもらうだけでも1ミリ位は罪滅ぼしになると良いんですが...

この常設展示室、2007年にリニューアルしたということですが、改装前より悪くなったという声もあるみたい(ただしリニューアル後にも若干の手直しはしてる模様。リンクした藪本雅子氏の他記事も参照されたし)。
こうした論争的なテーマを扱っている博物館の場合は館が提示している文脈や価値判断を100パーセント鵜呑みにしないことも大切ですよね。

なんだか長く重くなったので、企画展示の感想は項を改めて又次回に。。


(つづく)
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# by brevgarydavis | 2013-06-09 00:57

「おーい引っ越すぞ!」「又?今度はどこさ?SANAA??異国かい!?」

なんか微妙に忙しくてブログ書くのがおっくうな感じ..毎日更新してる人とかホントに偉いですよね。。
机の上の紙に書きたいネタ忘れないようにメモしてるんですが、数えてみたら40以上溜まってます...
でも半分くらいは終わっちゃった展覧会のネタなんでボツだな~。
くだくだ知ってること書くんじゃなくて、自分なりの感想とか発見を簡潔に書かなきゃいかん(反省)。。

で、今回は2~3週間前にパンフレット貰ってすこぶる感心した、
平成27年度開館予定の「すみだ北斎美術館」の感想など。。

墨田区が来日中に急逝した故ピーター・モース氏の北斎コレクションを取得し、北斎を記念する美術館を建てようとしていることはご存知の方も多いでしょう。
2009年には公募型プロポーザルで設計者が妹島和世建築設計事務所に決まりました。
 (あ?今気づきましたけどSANAA 【妹島和世+西沢立衛】 じゃなくて妹島さん単独なんですね)
プロポーザルの時はイマイチぴんと来なかったんですが、改めてよく見てみるとこれはかなり優れた
建築になりそう。期待が膨らんできましたよ!

b0283699_1622711.jpg左図のようにスリットで分割された多面的な外観が特徴。外壁の淡く反射するアルミパネルはルーヴル・ランスと似たイメージかな。

1階部分はスリットの開口部が東西、南北に十字型に貫通していてどの方向からでも自由にアプローチ(通り抜けも!)できる、いわばピロティ的な造り。


スリットというとむしろ密閉性の表現として使われる場合が多いですが、大きく切り取ることによって周りに開かれた雰囲気の演出とするというのは妹島さんならではですね。さすがだな~と脱帽。

1階部分はフリーゾーンにして四隅の”柱”の中にそれぞれエントランス、図書室、講座室、荷物用エレベータを配置し(上手い!)、2階は学芸員室・収蔵スペースなどスタッフオンリーのフロアーで、3,4階を常設・企画展示室とするプラン。
本当は展示室はワンフロアーの方が望ましいでしょうが、これは所与の敷地の問題だから建築家としてはどうしようもないですね。プロポーザルの時のパースでは床にアップダウンがあるように見えたので、新美南吉記念館の例を思い出して不安を覚えたんですが、今回のパンフレットでは平らな床面になっているようでその点は一安心。

一方、強いて残念な点を挙げるとすると、建物に浮世絵や北斎を思わせるところはなく墨田区のこの場所だからというサイトスペシフィックな特徴も感じられません(まぁ江戸っぽい雰囲気にするには隈研吾氏の馬頭広重美術館みたいに和風モダンな造りにする以外方策はなさそうですが)。
いや、それが残念ということではなくて、どこか緑に囲まれた美しい場所に写真美術館としてでも建てられればもっともっと傑作建築として世界的に評価されただろうに...という点が惜しい!

以前建設地が緑町公園に決まった時にわざわざ見に行きましたが、別に悪い場所でもないけど墨田区内にももっと良い場所たくさんあるのにな~というのが正直な感想でした。浅草からスカイツリーへの動線上、墨田公園の近くとかね。。
大体23区内の公立美術館は空いてる都有地や区有地に地域のバランスなんかを考えて建てられたりするのではっきり言ってどこも碌な立地じゃないんですよね~。文化施設は商業施設と同じくらい立地が大切だと思うんですが...

個人的には数百点くらいの中途半端なコレクションでもって保存上展示期間が限られる浮世絵の美術館を建てるのは感心しないんですけど、まぁ北斎の美術館をつくるとすれば小布施や津和野より墨田区の方が相応しいのも明らかな事実。一生のほとんどを墨田区と台東区のあたりで過ごしたわけですからね。せめて開館までに収蔵品を充実させて欲しいものです。

たばこと塩の博物館も近い将来墨田区に移転しますし、私もそろそろ墨東に引っ越してみようかな~。
あ、そんな金も暇もないか...(>ε<。 )


(悲報) 以前クールベの記事で心配していた村内美術館ですが、やはり6月25日で実質閉館と
      いうことになりそうな模様。コレクションの行方が気になりますね...
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# by brevgarydavis | 2013-06-02 00:07

祝落慶!!巣鴨さざえ堂でお年寄りも若者もくるくる昇天中!

以前このブログで大正大学が巣鴨にサザエ堂建ててます、ってのをお知らせしましたが、
無事予定通り竣工したということで紹介した行き掛かり上、偵察に行ってまいりましたよ。

正式名称は「すがも鴨台観音堂」
鴨台、というのは巣鴨あたりの高台を指す雅称で、本郷と言えば東大、三田と言えば慶応、というように大正大学の代名詞として雑誌や同窓会などの名称にしばしば使われている言葉です。

大正大は言うまでもなく仏教系の大学ですから観音堂を建てるのは良いとしても、なんでここにサザエ堂?っていうのが疑問だったんですけど、一種の地域貢献として、ということみたい。

巣鴨という地域、もともとは江戸のはずれの一農村でした。
それが村内に中仙道が通っていたことから、江戸が発展するにつれて茶屋や駕籠屋、あるいは植木屋や青果商などが街道筋に立ち並び賑わいを見せるようになります。
18世紀中頃になると、そうした中仙道沿いの町家は町方として町奉行所の支配下に入ることに。。
巣鴨村の中でもその区域だけは、いわゆる江戸八百八町の一つとなったわけです。
 (実際には当時江戸の町は1600以上にも増えてたそうですが...)

現在おばあちゃんの原宿として有名な「巣鴨地蔵通り商店街」 がまさにこの中仙道沿いの町方部分に当たります。
歴史好きの方には巣鴨駅から中仙道最初の宿場町である板橋駅(正確には宿場は駅のもうちょっと先)まで旧中山道(今は白山通りがバイパスとして機能しているため旧がつきます)を歩くというのがお薦めのプチ散歩コース。
ほぼ直線で2km余り、道の幅がなんとなく昔の街道っぽくて良い感じなんですよ。

見所の第一は巣鴨駅を出てすぐ、地蔵通り商店街の入口に位置する真性寺の大きなお地蔵さん(1714年造立)。いわゆる江戸六地蔵の一つとして有名ですが、現存する五体の中でも江戸の出入り口に祀られたという本来の姿を一番感じることができる良い環境にあります。
次の必見スポットはなんといっても巣鴨の代名詞、とげぬき地蔵の高岩寺。ただしこのお寺、実は明治24年に上野から引っ越してきたスガモ的には新参モノなんですよね。だけど刺抜きパワーはすごくて移転するとたちまち巣鴨一の人気スポットになったそうでございます。

で、次は...となると、何を隠そう巣鴨に来た人の99.9%はここら辺しか行かないのが現実。。
でも江戸時代には中山道を更に1kmほど進んだ庚申塚のあたりも賑わいを見せておりました。
中仙道の立場として江戸からの長旅や飛鳥山への行楽の際などに立ち寄る茶屋があったからです。
 (『江戸名所図会』にも登場しますね)
しかし言うまでもなくキョービ茶屋一軒で人を呼ぶことはできませぬ。

そこで登場したのが件のすがも鴨台観音堂なんです!!

以前は大正大学は旧中仙道に面していなかったんですが、近年南側の土地を買い増して庚申塚のすぐ先、地蔵通り商店街の西端に校地が接することとなりました。
せっかくだから地元になにか貢献できることはと考えたんでしょう、巣鴨駅周辺の観光客をもっと西に
回遊させるような新たな名所を創ったらどうよ?!ってなことで出した答えがサザエ...
 (なぜサザエだったのか私には未だに分りませんが、大正大も中々やるな..とは思いましたよ..)

このサザエ堂、できたばっかりだから当然ぴっかぴかでとっても綺麗。
でもそこが何だか物足りぬのう~新建材で明るく清潔に作られてるので2~3分もあればスルっと昇って降りて来れちゃう。。本来こういう珍妙な建物はちょっと異界感があって探検気分を味わえる位が魅力的なんでしょうけど、そうした感情に訴える部分は少ない感じ。。

正面から入るとまず目に飛びこんで来るのはガラスの中に安置された古そうな制多迦童子さん。
(とある仏具屋さんの寄託とか。不動明王の眷族だからイマイチここには合わない気もする…)。
それを横目に左回りに階段を昇っていくと途中の壁には梵字が。。メモしてこなかったので何の梵字か分からん…三十三観音かな~?数だけでも数えてくれば良かった(反省…)
頂上に着くと(更に階段は続くようですが立入禁止)千住博氏が描いた滝?の小さな三曲屏風を背にして2尺位の小さな素木造りの聖観音サマがお出迎えしてくれます。
松久宗琳佛所という所(有名?)の制作だそうです。

(昔学生だった頃に美術史の先生と話していて、某お寺に行ったら本尊が戦後に作られた仏様だったのであんまり面白くなかったと
言ったら、「あの仏像は戦後のものとしては屈指の傑作だよー」って返されて衝撃を受けた記憶があります…近代以降の仏像だから
と言ってバカにせずにちゃんと芸術作品としてマジメに見なければと反省したんですが、未だにどれも似たりよったりに見えちゃう…)


二重らせんなので下りは別階段でく~るくる。
その壁にも千住氏作のカラフルなパネルが嵌めてあります。でも屛風もパネルも小さいので千住氏の本領があまり発揮されない印象。。周りの敷地の塀にでも描いてもらった方が良かったような...。

                        (堂内は撮影禁止です)
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率直な印象としては地蔵通り商店街のお客さんをここまで引っ張ってくるにはパワー不足かな~。

再開発妄想のある私としては、なんとかこの旧中山道沿いが江戸情緒を味わえるような通りとして観光地化してくれると良いのに~と思ってるんですけどね...浅草の外国人観光客の皆さんが川越まで行かなくてもここら辺に回遊する位になると地域も潤うんじゃないでしょうか。
第一歩としてお年寄り向けに温泉かスーパー銭湯でも近くに造ってくんないかな...。

大正大学は初めて敷地内に入ったんですけど予想外にキレイな学校でしたよ。
礼拝堂の中には重文の阿弥陀如来坐像もあるんですが、大正大学出身の女の子に聞いたところでは在学生でもほとんど見れないとのこと。残念!!
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# by brevgarydavis | 2013-05-19 23:49